「鎌倉殿の13人」第36回(お勉強中心)

「武士の鑑(かがみ)」
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Vatanabeus @nabe1975

一ノ谷の戦いで鵯越の逆落としが行われた際、畠山重忠が「馬を損ねてはならじ」と馬を担ぎ上げて岩場を駆け下ったくだりは良く知られるところである。 (吾妻鏡によれば重忠は範頼の大手軍に属しており、義経の軍勢には加わっていなかったという) pic.twitter.com/wj2qRajc1c

2022-09-18 19:15:42
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Vatanabeus @nabe1975

「畠山重忠の乱」は北条氏による有力御家人の粛清劇であり、畠山重忠は無実の罪で討たれている。しかし、その後の鎌倉政権や北条氏の混乱を考えると、確かに「乱」であったことには違いがない。

2022-09-18 19:50:13
Vatanabeus @nabe1975

元久元年(1204年)11月、将軍実朝の妻となる坊門信清の娘を迎えるために上洛した御家人たちの歓迎の酒宴で、畠山重忠の子重保と平賀朝雅の間で口論が起こった。その時は周囲の取り成しで事は収まったが、その翌日には重保と共に上洛していた時政と牧の方の子政範が病で急死している。

2022-09-04 08:57:37
Vatanabeus @nabe1975

「島津家文書」によれば、北条時政は争論の責任を取らせる形で畠山父子を勘当としているが、翌元久2年(1205年)正月に千葉成胤の仲裁で和解している。しかし、これは一時的なものだった。4月に入ると鎌倉に不穏な噂が流れ、御家人たちが集まり始める。

2022-09-04 09:01:19
Vatanabeus @nabe1975

6月21日、平賀朝雅は畠山重保に悪口を受けたと牧の方に讒訴し、牧の方はこれを重忠父子の叛意であると時政に訴えた。朝雅は牧の方の娘婿であり、重保は時政の先妻の外孫にあたる。またこの時畠山重忠の従兄弟である稲毛重成も鎌倉に呼ばれていたが、この人物も時政の女婿であった。

2022-09-04 09:04:42
Vatanabeus @nabe1975

牧の方の訴えを受けた時政は重忠に謀反の企てありとし、息子の義時と時房に重忠討伐を諮った。「吾妻鏡」によれば両人とも重忠の忠勤を訴えて反対したものの、牧の方やその兄大岡時親に「牧の方が継母だから仇をしようと思っているのだろう」と迫られ、やむなく重忠討伐を承知している。

2022-09-04 09:07:56
Vatanabeus @nabe1975

重忠討伐が決まると、稲毛重成は御所に上り畠山重忠謀反を訴え、将軍実朝は重忠討伐を命じた。翌日、重忠の子重保は稲毛重成に鎌倉まで呼び出されたが、由比ヶ浜で三浦義村の兵に囲まれ殺害された。

2022-09-04 09:12:03
Vatanabeus @nabe1975

重忠は鎌倉に騒動ありと聞き、6月19日に居館の菅谷館を出て鎌倉に向かっていた。重忠が率いていた武者は130騎に過ぎず、そこに北条義時率いる数万騎の大軍が迫っていることを知った重忠は撤退を潔しとせず、武蔵国二俣川で迎撃した。

2022-09-04 09:18:48
Vatanabeus @nabe1975

幕府の追討軍は安達景盛を先陣として重忠主従に攻めかかり、4時間ほどの激闘が繰り広げられた。重忠は愛甲季隆の矢に当たり、首を取られたという。享年42。「愚管抄」では自害したと記される。 pic.twitter.com/pj3riYoXhB

2022-09-04 09:22:36
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Vatanabeus @nabe1975

合戦後、重忠の首と対面した義時は涙を禁じえず「年来合眼の昵を忘れず、悲涙禁じがたし」と嘆いた。また「謀反を企てることすでに虚誕」「讒訴によって誅戮に逢へる」と、父時政を弾劾したと「吾妻鏡」は記す。信望の厚かった重忠を殺したことで、時政と牧の方は御家人の憎悪を受けるようになった。

2022-09-04 09:26:30
Vatanabeus @nabe1975

重忠の無実が明らかになると、重忠を陥れた張本人として一族の稲毛重成父子、榛谷重朝父子が三浦義村らによって殺害された。桓武平氏としての畠山氏は断絶したため、重忠旧領と畠山の名跡は足利義兼の庶長子義純が重忠の未亡人と婚姻し、継承した。以後畠山氏は源姓として存続する。

2022-09-04 09:31:43
Vatanabeus @nabe1975

畠山氏の滅亡によって秩父氏の惣領は河越氏となったが、頼朝以来の有力な家系であった畠山氏の断絶は秩父党の力を著しく弱体化させた。河越氏は北条氏と良好な関係を保ったが、武蔵国の実権は奪われたままに終わる。

2022-09-04 09:38:10
Vatanabeus @nabe1975

「次郎は見栄えは良いし頭も切れる。何というか俺と似た匂いを感じる」 「先に進むぞ」 #鎌倉殿の13人 pic.twitter.com/NO7tO0AQSc

2022-09-18 20:01:39
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Vatanabeus @nabe1975

史実の稲毛重成は、建久6年(1195年)に出家し道全と名乗っている。 #鎌倉殿の13人

2022-09-18 20:01:06
Vatanabeus @nabe1975

畠山一族に対する冷酷な処置を命じる時政。頼朝挙兵以来、外交と政略を主任務としていたため、本来同僚であるはずの御家人たちの心の機微に鈍感であった。 #鎌倉殿の13人

2022-09-18 20:03:12
Vatanabeus @nabe1975

このドラマの伊賀の方(のえ)は、野心以上に何か卑しさのようなものを感じてしまう。 #鎌倉殿の13人

2022-09-18 20:04:08
Vatanabeus @nabe1975

畠山重忠が討たれた元久2年6月22日、北条義時と伊賀の方の間に男子が誕生する。後の北条政村である。 #鎌倉殿の13人

2022-09-18 20:05:36
Vatanabeus @nabe1975

畠山重保は稲毛重成に由比ヶ浜まで呼び出され、三浦一党の兵に討たれた。 #鎌倉殿の13人

2022-09-18 20:08:08
Vatanabeus @nabe1975

畠山重忠が率いていたのは130騎程度。徒士や小者を含めても500名程度である。 #鎌倉殿の13人

2022-09-18 20:09:18
Vatanabeus @nabe1975

「牧の方が継母だから仇をしようと思っているのだろう」と義時と時房を謗ったのは、牧の方の実兄大岡時親である。 #鎌倉殿の13人

2022-09-18 20:10:01
Vatanabeus @nabe1975

さすがに武士同士の戦にまで口出しするりくに、時政もキレた。 #鎌倉殿の13人

2022-09-18 20:10:38
Vatanabeus @nabe1975

鶴ヶ峰まで進出した畠山勢130騎に対し、鎌倉勢は3000騎から数万騎と諸説あるものの大量の兵を繰り出した。結果として、二俣川の戦は畠山勢の善戦により4時間以上を要している。 #鎌倉殿の13人

2022-09-18 20:12:27
Vatanabeus @nabe1975

高所である鶴ヶ峰に陣取った畠山勢。鶴ヶ峰から見下ろす原野は平安時代に官立の牧場があり「牧が原」と呼ばれていたが、二俣川の戦いで鎌倉勢数万騎が陣取ったため、後に「万騎が原」と呼ばれるようになった。 #鎌倉殿の13人

2022-09-18 20:13:45
Vatanabeus @nabe1975

「その役目、俺に任せてくれ」 「説き伏せられなかったら腕相撲で勝負する」 安定の和田さん(蛮族) #鎌倉殿の13人

2022-09-18 20:14:57
Vatanabeus @nabe1975

政子の「御家人の話はちゃんと聞く」態度は非常に重要であり、後々の承久の乱において御家人を鎌倉方に残留させる一因ともなった。 #鎌倉殿の13人

2022-09-18 20:16:44
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