「鎌倉殿の13人」第41回(お勉強中心)

「義盛、お前に罪はない」
41
前へ 1 2 ・・ 7 次へ
まとめ管理人 @1059kanri

『吾妻鏡』健保元年五月三日条における義盛の最期 酉の刻に愛息である四郎左衛門義直の討ち死にを知った義盛は「年来義直を愛しその将来を願っていた。今に於いては合戦を励む事も無益である!」と声を上げて泣いた。これに周囲が戸惑っていた所に、江戸左衛門尉義範によって討たれた #鎌倉殿の13人 pic.twitter.com/0J3QTnndLt

2022-10-30 20:38:31
拡大
まとめ管理人 @1059kanri

『愚管抄』巻六によると、「和田義盛という「三浦の長者」が、北条義時を深く嫉みかねてからこれを討とうと考えていたが、れが発覚したため俄に挙兵した。しかし義時の屋敷には将軍実朝も在り、実朝が和田軍の前に立ちふさがって戦ったため、鎌倉の名の有るほどの武士は皆義時方となり #鎌倉殿の13人 pic.twitter.com/aIUxeVavec

2022-10-30 20:45:21
拡大
まとめ管理人 @1059kanri

二日戦って義盛の頸を取った。彼に同調していた児玉、横山といった武士たちも皆失せた。 その後、源頼家の子で、十四歳の僧となっていた子があったが、この子の元に義盛方の残党が集まり彼を立てて挙兵しようとしたため、彼らも皆討たれた。十四歳の禅師が自害するなど恐ろしいことだ。 #鎌倉殿の13人

2022-10-30 20:45:22
まとめ管理人 @1059kanri

『明月記』健保元年五月九日条には、先の泉親衡の乱の首謀者が和田義盛でありその残党が彼のもとに集まっている、という風聞や落書が出て、義盛はこれについて弁明し一端は収まったものの、義時側で内々に義盛討伐の密議があり、これを知った義盛が挙兵したのだ、とあり、 #鎌倉殿の13人 pic.twitter.com/XQwQ76bjuZ

2022-10-30 20:46:52
拡大
まとめ管理人 @1059kanri

義時側の挑発が原因であったと記されています。 また和田義盛の士卒は「一以当千」つまり一騎当千であったとあり、和田合戦におけるその軍勢の勇猛さが京にまで伝わったことが解ります。 #鎌倉殿の13人

2022-10-30 20:46:53
まとめ管理人 @1059kanri

しかしこの、武士の時代の草創を描いた大河から、中世の武士の有り様を結果的に総決算させた家康の大河につながるのは偶然とは言え面白いですね。今回の和田義盛や実朝たちの叫びも、家康が受け止める事となるのでしょう。 #鎌倉殿の13人

2022-10-30 20:51:14
国立公文書館 @JPNatArchives

建暦3年5月2日(1213年5月23日)、和田合戦が勃発。北条氏打倒を掲げた和田義盛が鎌倉で市街戦を展開しますが、まもなく敗死して和田一族は滅亡。 #鎌倉殿の13人 では #横田栄司 さんが演じていますね。曾我兄弟ともゆかりの伝説があり、画像の「和田酒盛」もその一つです。 buff.ly/3F4aEPk pic.twitter.com/ipMYPCg1dF

2022-05-02 12:00:04
拡大
Vatanabeus @nabe1975

早殿を見終えた。和田合戦が終わり、また一人退場する。義時はろくな死に方をしないと思う一方で、義時を理解できる人は誰もいなくなったのだと思う。 #鎌倉殿の13人

2022-10-30 18:44:12
Vatanabeus @nabe1975

戦国時代、尾張の織田氏に仕えた佐久間氏は三浦義明の孫家村が安房国佐久間を領したことに由来するが、江戸時代に編纂された「寛政重修諸家譜」によれば、家村は和田義盛の嫡孫朝盛に家を継がせたとする。この記述に従えば、佐久間氏は和田氏の嫡流となる。 pic.twitter.com/Z7xITX6D07

2022-10-30 18:53:12
拡大
Vatanabeus @nabe1975

和田義盛挙兵の報せを受けた際に義時は囲碁を打っていたが、騒がずに烏帽子、装束を改めて御所へ参上したという。 #鎌倉殿の13人

2022-10-30 20:01:58
Vatanabeus @nabe1975

ドラマの義時は表向き義盛を挑発しているように見せて暴発を回避しようとしていたが、全ては虚しくなった。そして、それを理解してくれる人は誰もいない。 #鎌倉殿の13人

2022-10-30 20:02:40
Vatanabeus @nabe1975

「愚管抄」にはこの時期の和田義盛を「三浦の長者」と記しており、三浦義澄亡き後の三浦一党の指導者を義盛と見ていたことが窺える。 #鎌倉殿の13人

2022-10-23 20:12:44
Vatanabeus @nabe1975

「起請文はどうするのだ」 「俺に考えがある」 #鎌倉殿の13人 pic.twitter.com/dMvxTJv6Tm

2022-10-30 20:05:46
拡大
Vatanabeus @nabe1975

記録に残る和田義盛は武勇で周囲の御家人に尊敬されていた一方で、侍所別当としては西国遠征の際には真っ先に東国へ帰ろうとし、また鎌倉内で三浦氏と足利氏が争った際に仲裁に当たるべき立場でありながら三浦方に加わるなど、職務に対して思慮に欠ける面があったという。 #鎌倉殿の13人

2022-10-30 20:07:41
Vatanabeus @nabe1975

ここでドライなのえと情の深い巴を対比させるところは見事。 #鎌倉殿の13人

2022-10-30 20:08:15
Vatanabeus @nabe1975

「目指すは鎌倉御所」 和田勢は御所を襲撃する前に義時邸と大江広元邸を襲撃し、既に守るものがいなかった両邸宅は蹂躙されている。 #鎌倉殿の13人

2022-10-30 20:09:46
Vatanabeus @nabe1975

既に姉にも信用されていない義時(つらい) #鎌倉殿の13人

2022-10-30 20:10:20
Vatanabeus @nabe1975

義時は将軍実朝と尼御台と実朝夫人を鶴岡八幡宮へ避難させ、大倉御所の警護を采配している。 #鎌倉殿の13人

2022-10-30 20:10:51
Vatanabeus @nabe1975

ここで泰時の「酒に弱い」という特性が明かされてしまう。 #鎌倉殿の13人

2022-10-30 20:11:31
Vatanabeus @nabe1975

父親に期待され信頼されている兄と、期待されず追放された弟の対比。 #鎌倉殿の13人

2022-10-30 20:12:34
Vatanabeus @nabe1975

この時、御所南門で実際に和田勢と交戦したのは寝返って間もない三浦勢だった。 #鎌倉殿の13人

2022-10-30 20:14:09
Vatanabeus @nabe1975

朝時は記録だと武勇の人だが、ドラマではまだビビリである。 #鎌倉殿の13人

2022-10-30 20:15:39
Vatanabeus @nabe1975

鎌倉殿の証、髑髏。他にもまだある存在だったのが、時を経て権威と神聖さを帯びた。 #鎌倉殿の13人 pic.twitter.com/aJLJqFe7KD

2022-10-30 20:17:03
拡大
前へ 1 2 ・・ 7 次へ