御所に侵攻した和田勢は善戦するが、幕府方には新手が次々に加わり、矢種も尽き、人馬も疲労して由比ヶ浜に退いた。 #鎌倉殿の13人
2022-10-30 20:20:27和田勢が由比ヶ浜に退いた翌朝、曾我、中村、二宮、河村などの相模、伊豆の御家人の軍勢が武蔵大路から稲村ヶ崎に現れた。この時は旗幟を鮮明にしていなかったが、大江広元が将軍実朝の御教書を示したことから形勢は幕府方有利となる。 #鎌倉殿の13人
2022-10-30 20:23:06これまでの鎌倉の動乱は局地戦だったが、和田義盛の蜂起では鎌倉市街で戦闘が行われた。和田「合戦」と呼ばれる所以である。 #鎌倉殿の13人
2022-10-30 20:24:34この時、和田勢で勇戦したのが和田義盛の三男朝比奈義秀である。その勇戦は敵方であるにも関わらず「吾妻鏡」でも称賛され、また数多くの伝説を残した。 #鎌倉殿の13人
2022-10-30 20:27:49もう鎌倉武士同士で殺し合うのは何とかならないのか。相撲やガンダムファイト、ポケモンバトルなど代替手段はいくらでもあるではないか。 #鎌倉殿の13人 pic.twitter.com/7hjkiS7k4t
2022-10-30 20:29:22義時としては、ここまで将軍と個人的な親密さを築いてしまった人物が生き残ってしまうことを許してはおけなかったのだろう。 #鎌倉殿の13人
2022-10-30 20:32:36巴御前の終焉は、義仲敗死後に不明となる。一説では和田義盛に嫁いで朝比奈義秀を産み、和田合戦の後に越中国礪波郡福光の石黒氏の元に身を寄せ、出家して義仲と和田一族の菩提を弔う日々を送り、91歳で生涯を終えたという。 #鎌倉殿の13人 pic.twitter.com/WlEcRs3K1Y
2022-10-30 20:35:49和田合戦において和田一族は壊滅したが、朝比奈義秀は残兵を率いて安房に逃げ延びたとされる。また義盛の子朝盛も生き延びて京に逃れ、朝盛の子佐久間家盛はやはり安房国へ逃れた。 #鎌倉殿の13人
2022-10-30 20:37:12和田義盛にも落武者伝説が残る。和田義盛は戦で敗れたが生き残り、落武者となって南伊豆の青市に身を寄せ、そこで庄屋の娘と結婚し、子供も生まれ、和田の名を山田と改めたという。 #鎌倉殿の13人
2022-10-30 20:38:03官女に手を出したことで義時に義絶されていた朝時だが、和田合戦の武功により帰参を許された。しかし後継者の座から外され、分家である名越流を起こす。 (北条宗家を継承できなかった遺恨は子孫に残り、名越流は北条得宗家にとって不安材料であり続けた) #鎌倉殿の13人
2022-10-30 20:41:17和田合戦で政治的興味を完全に失うかと思いきや、完全に覚醒してやる気満々になってしまう将軍実朝。これは危ない。 #鎌倉殿の13人
2022-10-30 20:41:50この年、鎌倉には「山崩れ地裂ける」と称される大地震が6回記録されている。天変地妖により、建暦から建保に改元された。人心不安に天変地異が重なり、末法思想が広まっていく。 #鎌倉殿の13人
2022-10-30 20:43:24髭だらけの和田一族を「みんながいろんな毛むくじゃらを追求してくれて、面白かったですね」と語られているのが最高でした。お疲れ様でした。 twitter.com/nhk_kamakura13…
2022-10-30 21:09:56源実朝の渡宋計画は「政治的実権を奪われて現実から逃避しようとした将軍が怪しい宋人陳和卿の口車に乗せられた荒唐無稽な計画」と考えられているが、ドラマではどのように描かれるのだろうか。想像できない楽しみがある。 #鎌倉殿の13人
2022-10-30 21:17:35御所に出向いた和田義盛の帰りが遅いことに息子達が「嵌められた」と思い込み挙兵してしまう。この流れは『吾妻鏡』の仁田忠常の最期に似ている。比企追討の褒美を受けに北条時政邸を訪れた忠常だったが、帰りが遅く、時政追討の謀略が露見したと弟達が勘違いし挙兵してしまう。 #鎌倉殿の13人
2022-10-30 20:01:26『吾妻鏡』では、和田義盛挙兵の報を義時は囲碁の途中で聞くが、ここではひとり双六の賽を振っているのね。上総広常の排斥のときの双六と重ね合わせる。 #鎌倉殿の13人
2022-10-30 20:04:17