ウクライナの民族主義者組織
- noricksakurai
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戦前・戦中のウクライナ関係の組織名や略称がいろいろややこしいから整理してみたけど、やはり闇の沼が深いからほどほどにしておこう
2022-02-05 18:51:29ウクライナ人民共和国UPR
ウクライナ人民共和国UPR 1917年11月22日から1920年11月10日までウクライナに存在した独立国家。ウクライナ人民族主義者、白軍、赤軍、ウクライナ革命蜂起軍による内戦状態となり、一時はポーランド軍との共闘で盛り返したが、ポーランドがソ連政府とリガ講和条約を結んだために命運は尽きた。
2022-02-05 19:23:34ウクライナ人民共和国亡命政府はポーランド、フランス、ドイツに拠点を移しながら活動を継続し、ソ連と同様にポーランドを目の敵にしてきた。ソ連崩壊後の1991年に独立した新生ウクライナ共和国を後継として亡命政府は1992年に解散した。
2022-02-05 19:39:09ウクライナ民族主義者組織OUN
ウクライナ民族主義者組織OUN ウクライナ独立国家樹立を目的とした民族主義組織で1929年2月3日にウィーンで設立。1920年にウクライナ人民共和国が挫折して以来ポーランドとソ連を敵と規定している。1940年2月10日にAndriy Melnyk率いる穏健派OUN(M)とStepan Bandera率いる急進派OUN(B)に分裂した。
2022-02-05 19:46:01ウクライナ民族主義者組織OUNは1929年にはドイツ国防軍情報部に人員を提供してローランド部隊の設立に協力したが、1941年6月30日にドイツ軍占領下のリヴォフでOUNが一方的に独立ウクライナ国家の樹立を宣言するとドイツ側はこれを認めずOUN指導者を拘束すなどもあり、協力関係は刻々変化した。
2022-02-05 19:54:481943年4月にSS義勇師団ガリツィエンの編成が始まるとOUN(M)は協力したが、OUN(B)は当初は協力を拒否した。しかし2カ月で約8万人が募兵に応じ驚いたOUN(B)も影響力確保のために協力に転じた。各派が独自に武装組織を持って活動し、戦後は西側情報機関と協力したが影響力は徐々に低下した。
2022-02-05 20:52:10ドイツ軍のウクライナ人部隊
ウクライナ情勢を受けてにわかに「ウクライナ蜂起軍UPA」の話題が流れいますが、その母体である「ウクライナ民族主義者組織OUN」の支持者からドイツ国防軍情報部がブランデンブルク部隊内に設けたウクライナ人部隊、ローランド(Roland)中隊というのがありまして、1940年時点で150名ほどの兵員でした。
2022-01-30 13:48:55ポーランド占領後にはポーランド在住のウクライナ人志願者により2番目のナハチゲル(Nachtigal)中隊が編成され、バルバロッサ作戦時にはローランド(Roland)大隊とナハチゲル(Nachtigal)大隊へと拡大され、この2個大隊はウクライナ軍団と呼ばれ、OUN側としては将来の国軍の中核と期待されました。
2022-01-30 13:52:011941年6月30日にリヴォフでOUNが独立ウクライナ国家の樹立を宣言すると驚いたドイツ側はステパーン・バンデーラを始めとするOUN指導者を拘束し、ウクライナ西部のガリチア地方は「総統府」に、残りは「ウクライナ国家行政区」となり9月には総督エーリヒ・コッホ(Erich Koch)が派遣されました。
2022-01-30 13:56:57ドイツ側のウクライナ独立拒否やOUNの派閥抗争の影響もあり、ウクライナ人義勇兵の士気は急激に低下し、2個大隊は1941年8月13日に武装解除されてクラクフ経由でノイハマー練兵場に送られて解隊され、10月21日には兵力650名により「第201シューマ大隊」として再編成されました。
2022-01-30 13:58:52大隊は4個中隊からなり正式な大隊長は元ポーランド陸軍のEvhen Pobyhushchy少佐でしたが、実際はSD連絡将校のWilhelm Mocha大尉が指揮したようです。兵士は1年間の傭兵契約となり、大隊は1942年3月16日からベラルーシに派遣されMahiliou-Vitsebsk-Lepel地区に分散配置され警備任務に従事しました。 pic.twitter.com/tXkJczbeUD
2022-01-30 14:03:121年間の勤務契約満了後の1942年12月1日の時点で兵士全員が再契約を希望しなかったため、大隊は1943年3月6日に前線から引き揚げられ3月8日にリヴォフに到着後に解隊しました。一部の指導者的な人物は逮捕収監されましたが兵士は実戦経験者としてUPAなどに合流したものと思われます。
2022-01-30 14:08:39ウクライナ蜂起軍UPA
ウクライナ蜂起軍UPA OUN(B)「バンデラ派」により1942年10月14日に設立された武装組織で、1943年5月から正式に「ウクライナ蜂起軍UPA」と呼ばれた。UPAはドイツ軍とソ連軍を互いに疲弊させて共倒れさせ、ウクライナ独立国を樹立する最後の蜂起に備えることを計画した。
2022-02-17 23:28:13UPAはソ連軍と共産パルチザン、ポーランド国内軍と人民軍と敵対する一方でドイツ軍とは協力する場面もあり、戦後「ナチ協力者」認定される要因ともなった。 1943年春、シューマ(補助警察部隊)から脱走した兵員がUPAに走る事件が連鎖的に続発し、3月~4月には4,000名~6,000名がUPAに加わった。
2022-02-17 23:37:461944年夏ブロディ地区で「SS第14義勇擲弾兵師団」が壊滅した際には最大で約3,000名がUPAに加わった。1944年秋、ドイツ軍当局はOUN(B)バンデラ派の指導者を強制収容所から解放して協力させ「ウクライナ国民委員会UNC」や「ウクライナ国民軍UNA」を設立したが、1945年5月の敗戦まで時間はなかった。
2022-02-17 23:41:26当初の目論見とは違い、戦後UPAが対峙したのは強力なソ連軍であった。ソ連軍は当初大規模な掃討部隊を投入したが成果があがらないためNKVD軍を投入し、恩赦を餌にした拘束、ウクライナギリシャカトリック教会UGCCへの弾圧、住民の強制移住、集団農場化等によりUPAの活動は徐々に封じられた。
2022-02-17 23:44:19UPAもNKVBもお互いに相手側に偽装して農民への襲撃を繰り返し、反感を煽るため一家皆殺しの虐殺が繰り返された。1949年10月3日UPAは解散し地下活動に移行したが小グループは1956年初頭まで活動した。1991年にウクライナの独立が回復するとUPAは再評価され、2018年12月に独立運動の兵士と認定された。
2022-02-17 23:56:23ウクライナ人民革命軍
ウクライナ人民革命軍Poliska Sich UPA→UNRA 1941年夏タラス・ボロヴェッツ(Taras Dmytrovych Borovets)によりウクライナ北部で設立。ドイツ軍、ソ連軍双方と戦い1942年に3,000名~10,000名の最大兵力を獲得し、1941年8月21日から11月15日までオレフスク市を支配し「オレフスク共和国」を名乗った。
2022-02-25 17:30:06ウクライナ蜂起軍UPAへの参加を拒否したが、1943年7月~10月にOUN(B)バンデラ派との闘争に破れ戦闘員の多くはUPAに参加し10月5日に解散。ボロヴィッツはドイツ軍と交渉しようとして逮捕されたが1944年秋に解放され1945年にUNAに参加。残党はUPAから距離を置きUNRAと改名したが1944年2月に壊滅。
2022-02-25 17:36:22