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さて九品仏川西流説。。。。ああ悩ましい。 最初に言っておくと、これ、かなり有力な説。いや最有力かも。何しろ、文化二年の目黒筋御場絵図にそう描かれているのだから。絵図自体もかなり正確だし。 けれども、やっぱりいくつか、ひっかかるのである。
2011-11-27 13:40:51![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
まず、自然河川だとすると、谷沢川への接続部になる逆川が細すぎるんじゃないかなあ。自然争奪がおきたとすれば、かなりの水量があったはずで、浅く広い川筋が出来る方が自然に思える。
2011-11-27 13:42:05![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
もう一つは同じことなのだけど、明治10年代の迅速測図では、逆川の周辺は水田ではない。たしかにすぐ北には、九品仏川流域の水田があるのだけど、二つの間は離して描いてある。
2011-11-27 13:42:25![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
また、逆川の上流部は北ではなく、南に曲がっている。実は現在の地形もそんな感じで。地表の痕跡からみるかぎり、北の九品仏川流域ではなく、南の尾山(環8沿い)から流れ下るように見える。
2011-11-27 13:42:45![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
あと、文化二年から明治初めの間に、九品仏川の流れを西へから東へ逆転させたとすれば、かなりの工事が必要なはず。逆川との接点を埋めて閉塞し、呑川との接点を開削するのだから。
2011-11-27 13:43:07![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
さらに、それによって「逆川」(九品仏川+逆川)が逆さでなくなったのなら、すごい事件で話題になるのでは。地元には伝承や記録が残っているはず。 裏返せば、今日まで「再発見されなかった」こと自体が、実はそんな事件がなかったことを物語るのでは。
2011-11-27 13:45:31![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
で、考えたのだが。 自然河川の河川争奪はやはりなかったのではないか。けれども、九品仏川も東流していたわけではない。正確にいえば、大昔は東流していたが、自然閉塞した。その結果、九品仏川流域は、東にも西にも明確な水の吐け口のない低湿地になっていた。
2011-11-27 13:46:02![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
それが江戸時代になって、逆川との間に人工的な排水路を掘ることで、流域西部のごく一部の水はけを良くした。これは人工なので、地形の大きな改変をともなわないが、重要なものだったので、文化二年の絵図には描かれた。
2011-11-27 13:46:19![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
ただ、これも湿田を乾田にするようなものではなく、豪雨で水びたしになったときに排水できる程度だったのでは。つまり、ふだんの九品仏川流域には、東への流れも西への流れも、はっきりしたものはなかった。
2011-11-27 13:46:44![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
その後、東側の自然閉塞した部分を人工的に掘り直して、同じような排水路をつくった。ただし、これも流域全体に大きな水の流れをつくるものではなく、流域東部の一部(浄真寺以東?)で、水位があがったときに排水できる程度だった。
2011-11-27 13:47:11![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
だから、流域には「水の流れが変わった」という伝承や記録は残らなかった。 ……そう考えると、ある程度つじつまはあう。ある程度は、だけど(笑)。例えば、玉川全円耕地整理で造った道路の傾斜にあわせて排水路網をつくったことも。
2011-11-27 13:47:35![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
もともと、この一帯にははっきりした水の流れる方向がなかった。だから、人工的に方向を決めて排水路網を造れた。言い換えれば、これも(以前考えてたのとはちがって(^^;;;;)人工的な逆川造りではなかったわけだ。
2011-11-27 13:47:55![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
あと、絵図の描写も。この絵図、谷戸や河岸段丘状の地形では、崖の左右に水路がちゃんと描かれている。九品仏川流域もそうだが、川筋を追うと、まず流域東部の北側段丘沿いに東流し、南側の段丘沿いに移って西流し、流域西部に入ると今度は北側と南側段丘沿いに分かれて西流し……
2011-11-27 13:48:17![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
となる。詳しくは、国立公文書館のデジタル画像(yookudさんありがとう!)を見てもらう方がいいが(^^;;;、要するに、逆川近く以外は、地形的に相当ありえない流れ方になってしまう。
2011-11-27 13:48:41![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
これはむしろ、九品仏川流域では、東西どちらとも流れ方が決まっていなかったことを意味するのではないだろうか。他にも、明治になって出現する九品仏池の謎とも関係ありそう。
2011-11-27 13:49:04![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
まあ、でも、くり返すが、これで謎が全部解けるわけでは全然ない。これはこれで新たな謎を生むわけで。「九品仏川のパズル」、しばらく、楽しめそうである。
2011-11-27 13:49:19参考:目黒筋御場絵図(国立公文書館)