『とはずがたり』を読む

『とはずがたり』には光文社文庫からよい現代語訳が出ている。最初はあまり信用していなかったが、必要な情報をうまく訳文の中に入れて、古文の分かりにくいぼかした書き方をしているところをずばり補足しているが分かったので推薦したい。 『とはずがたり』の古文は和歌の文体であり、古文の達人でも現代人には難解である。うわさの性描写を目当てに読もうとしても、そんなものはない。前後のいきさつがあるだけだ。 鎌倉時代後期の皇室は御所があちこちにあるなど、予備知識が必要で、そういうのをネットで仕入れながら読む必要がある。
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Tomokazu Hanafusa/花房友一 @tomokazutomokaz

[一の七]「角の御所の中門に御車引き入れて降りさせたまひて」は 二条は角御所の中門、つまり別棟の屋敷の南へ延びて外縁との境をなす廊下つまり中門廊の門から屋敷の内側へ車ごと連れ込まれたということらしい。

2023-09-23 22:33:02
Tomokazu Hanafusa/花房友一 @tomokazutomokaz

[一の一一]〔14法皇嵯峨御幸〕 「かなふまじき御さまなりとて嵯峨御幸なる」 後嵯峨院が脚気が重くなって嵯峨の亀山殿に移った。 この亀山殿はのちに天龍寺になっている。 それに対して近くの大覚寺は最初から大覚寺でそこも御所として大覚寺統の根拠になった。 ktmchi.com/SDN/SDN_063-5.…

2023-09-25 17:25:49
Tomokazu Hanafusa/花房友一 @tomokazutomokaz

「とはずがたり」のような恋話はほかには 古今著聞集322が有名で、後白河天皇の話がある。 detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_de… 古今著聞集のテキストは yatanavi.org/text/chomonju/…

2023-09-25 17:30:54
Tomokazu Hanafusa/花房友一 @tomokazutomokaz

[一の一四]「黄病(きやまひ=黄疸)といふことなり、あまりに物を思うて付く病なり」と申して、灸治あまたするほどに この作品の時代、鎌倉時代にはどんな病気にもお灸をしていたことがわかる。[一の一〇]では後嵯峨院は脚気だったのにお灸をしている。

2023-09-25 18:07:47
Tomokazu Hanafusa/花房友一 @tomokazutomokaz

作者二条が読んだと思われる『狭衣物語』の 現代語訳がネットに。 suzunari88top.hatenablog.com/entry/2022/12/… 原文は有朋堂の本がGoogleブックスになっていて無料で読める。 play.google.com/books/reader?i…

2023-09-27 11:37:23
Tomokazu Hanafusa/花房友一 @tomokazutomokaz

[一の二三]に出る今姫君が狭衣物語の登場人物。 その前の 「御姆(はは=乳母)にてありしものは、さしもの古宮の御所にて生ひ出でたる者」 の「古宮」に勤子内親王という注がついているが、その情報は[二の二一]の二条の乳母の母の伊予殿の昔の勤め先が宣陽門院(=勤子内親王)という記述からだろう。

2023-09-27 12:05:57
Tomokazu Hanafusa/花房友一 @tomokazutomokaz

寝殿造りの障子はいまの襖のことで、いまの紙を貼った障子は明り障子というらしい。だから、障子は現代語訳では襖と訳されているというわけ。 「母屋(室内)と庇(内縁)の間にはこの障子(襖)が 空間の仕切りとして用いられる」 ktmchi.com/SDN/SDN_013-2.…

2023-09-27 12:25:42
Tomokazu Hanafusa/花房友一 @tomokazutomokaz

[一の二五] 「このほどは御訪れのなきも」 古文では「訪れ」は「音づれ」であって、実際に来なくても手紙をもらうだけでも「おとづれ」なのである。

2023-09-29 12:30:11
Tomokazu Hanafusa/花房友一 @tomokazutomokaz

ところで、後深草天皇は深草天皇がいないのになぜ後深草なのかという疑問があるが、仁明天皇の別名が深草天皇だったらしい。 ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C… ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81…

2023-09-30 12:01:08
Tomokazu Hanafusa/花房友一 @tomokazutomokaz

[一の二六] 「伏見の御所の御ほどなるが、ただ今しもおぼしめし出づる事ありて」 伏見は京都市の南端、宇治市の北で、昭和16年まで存在した巨椋池の北側。二条がいる醍醐はその5キロほど東。途中に立ち寄ったのではないらしい。

2023-09-30 12:27:21
Tomokazu Hanafusa/花房友一 @tomokazutomokaz

[一の三二]「年返りぬれば、いつしか六条殿の御所にて」院は写経をさせ自分も女を遠ざけで写経をした。 六条殿の御所は後白河法皇が作った御所であとに出てくる長講堂もあり、のちに後深草院のものになるが、まさに六条通りに面して今もある。 ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7…

2023-10-02 15:08:01
Tomokazu Hanafusa/花房友一 @tomokazutomokaz

後深草院の御所は富小路御所であるらしいことは、 [三の二〇]「富小路殿より京極殿の御局(=院の女房)の御渡りぞ」 のあと来たのは女房ではなくて後深草院だったというところからやっと分かる。第一巻で二条が院に連れ帰られたのは富小路御所のその角御所で院はその中の常御所に入ったことになる。

2023-10-03 16:06:31
Tomokazu Hanafusa/花房友一 @tomokazutomokaz

寝殿造6.3.2 里内裏・冷泉富小路殿 ktmchi.com/SDN/SDN_063-2.… 寛元4年(1246)この御所で後深草天皇即位。天皇は閑院皇居に居たが、宝治3年(1249)閑院焼失により富小路殿に移る。正元元年(1259)再度閑院焼失によりここに移る。その後、院御所とする。『とはずがたり』の主な舞台はこの御所である。

2023-10-03 16:20:03
Tomokazu Hanafusa/花房友一 @tomokazutomokaz

閑院址|【京都市公式】京都観光Navi ja.kyoto.travel/tourism/single… 閑院皇居 高倉天皇の時代、大内裏が甚しく荒廃した為、閑院邸が里内裏として利用され、ついで後鳥羽天皇もここで皇位を承継されるなど朝廷の中心となったところでもある。以来、後深草天皇に至る9代90余年間、里内裏ともなっていた

2023-10-03 16:24:44
Tomokazu Hanafusa/花房友一 @tomokazutomokaz

[二の二〇]露台の乱舞、御前の召し、おもしろくとも言ふばかりなかりし これと同じ表現が『弁内侍日記』にある。 「露臺の亂舞などはてゝ、御前のめし、つねよりもいとおもしろく」 www2s.biglobe.ne.jp/~Taiju/ben_2.h… 弁内侍も後深草天皇に仕えた女官だが、時期的には直前に当たりかぶらない。これを読んだ?

2023-10-10 13:52:59
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