エリザ氏による、天覧兜割試合を演じた、1830年江戸麻布生まれの最後剣豪、榊原鍵吉の生涯

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エリザ @elizabeth_munh

いんたーねっとRAFちゃんねる

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剣士は静かに立ち上がり、散歩でもするかの如く軽やかな足取りで歩き出す。 手には名刀、同田貫。 正面に見据えるは室町時代より名工と讃えられた、明珍家の手になる兜。 剣士は上段に刀を構えると、息を吸い込み、裂帛の気合いと共に吐き出す。 紫電一閃。 pic.twitter.com/OKwMaPqI2H

2023-10-29 14:05:18
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榊原鍵吉は幕末となる1830年、江戸麻布に生まれた。 榊原家は徳川四天王が一人、名将榊原康政の養子である榊原職直に起源を持つ徳川直参の御家人であり、徳川家への忠誠心は高いものの、数代前の当主の失敗によって没落しており、鍵吉の父の頃には直参とは言っても80石程度の貧乏侍に落ちていた。 pic.twitter.com/iNE7W1IzuA

2023-10-29 14:10:35
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父は先行き真っ暗な榊原家に絶望して放蕩に走り、ただでさえ乏しい榊原家の身代を傾け、借金取りに追われる。 必然的に鍵吉は若い頃から弟妹の世話や身体が弱い母親のために働かなければならなかった。 「しかしそんな事は言い訳にはならん。拙は武士だ。武士ならば剣を磨かねば」

2023-10-29 14:13:11
エリザ @elizabeth_munh

13歳の頃、鍵吉は近場の直心影流道場に入門する。幕末最強の剣客の1人と後に称される男谷信友の道場だった 男谷の剣名もさることながら、家事に追われる鍵吉にとって家から近いと言うのは重要な条件だったものの、同年に母が亡くなると、鍵吉の父が引越しを決意したので、道場は4里彼方に遠ざかる

2023-10-29 14:18:25
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それでも鍵吉は毎日欠かさず道場に通い詰めたので、男谷は流石に見兼ねて鍵吉に他所の道場に移るよう勧めた。 「江戸三大道場に紹介状を書いてあげるから、そちらに移りなさい。ここでは不便すぎる」 しかし鍵吉は静かに首を振った。

2023-10-29 14:21:11
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「男子たるもの、一度師事すると決めたなら、中途半端に投げ出したりしないものです。どうか末席でもここに置いてください」 男谷は内心思わず唸った。 「今どきこんな愚直な門下生はおらん。剣の全てを託せるか、試してみたい」 こうして鍵吉は男谷の道場に通い続ける事になる。

2023-10-29 14:24:43
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愚直さを武器にめきめきと腕を上げた鍵吉はしかし、免状を得る事が叶わなかった。当時、そういった物を得るには師匠に対して礼金を送り、宴会を開く慣習があり、貧乏な鍵吉にそういった物を準備するだけのお金などあるはずがなかった。 「別に構いはしない。剣を学べるだけで十分だ」

2023-10-29 14:27:59
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こうして道場でも有数の腕前となり、教える事が何も無くなっても鍵吉は初級の免状すら持たないまま過ごす。しかしある時男谷は鍵吉に大金を託す。 「これを持って、明日の正午、遣いに行って欲しい」 師匠の命ならばと鍵吉は引き受け、指示通りにお金を届ける。そのまま鍵吉は奥に通された。

2023-10-29 14:30:12
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そこでは男谷とその高弟達が宴会の準備をして鍵吉を待っていた。 「礼金は確かに受け取った。さぁ、免許皆伝の祝杯をあげよう」 男谷は鍵吉の懐を気遣い、自らその用意を整えたのだった。 「……! ご厚意、かたじけなく……」 「何のことやら。さぁ、めでたい席だ。楽しもうじゃないか」

2023-10-29 14:33:25
エリザ @elizabeth_munh

男谷から特別に目をかけられた鍵吉に立身の道が開ける。幕末、国防の必要性が高まった事から尚武の気風が高まり、旗本・御家人向けの武術訓練機関として講武所が設立された。 男谷は剣術教授として鍵吉を推薦し、鍵吉に朱槍と馬、馬丁を用意した。 「貧乏御家人の拙が、夢のようだ……」

2023-10-29 14:37:10
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講武所で鍵吉は大老、井伊直弼と将軍、徳川家茂の前で模範試合を行う。対戦相手は天下の名槍と讃えられた高橋泥舟だった。 剣対槍という事で不利は明らかにも関わらず、鍵吉は試合を制する。家茂は感嘆の声をあげた。 「七分で槍が有利と言われる試合を、それも達人相手に勝つとは!」

2023-10-29 14:41:20
エリザ @elizabeth_munh

こうして鍵吉は将軍家茂の剣術師範となり、常にそば近くに侍る。愚直で忠実な鍵吉を家茂は気に入り、何かある度に「鍵吉はいないか」と呼んだ。 収入も増加し、新たに米俵三百を与えられる。鍵吉は後年、この頃が人生の絶頂期だったと懐かしんだ。

2023-10-29 14:43:58
エリザ @elizabeth_munh

しかし運命は暗転する。彼をここまで盛り立ててくれた師匠である男谷が亡くなり、また家茂も崩御する。 武芸に対する幕府の考えも変化した。西洋列強の大砲や鉄砲を前に、弓槍刀で対抗するのは不可能だと考えられ、講武所は廃止される 「拙は、もはや時代遅れの侍か」 鍵吉は静かにそれを受け入れた

2023-10-29 14:46:53
エリザ @elizabeth_munh

西洋式軍隊の隊長をやってくれないかと言う幕府からの申し出を鍵吉は辞退した。 「拙は刀を振るしかできぬ故、御迷惑になりましょうから……。それに……」 鍵吉は言わなかったものの、背景には新将軍たる慶喜への不信感があった。 (家茂様は本来、田安徳川家の家達様を後継者に指名された)

2023-10-29 14:51:20
エリザ @elizabeth_munh

(しかし国家存亡の際に幼君では頼りないと横槍が入り、慶喜公が将軍に就任された。たとえ大樹様とは言え、筋を違えた方を主君と仰ぐ気はない。拙の主君は家茂様お一人。男子は二君に仕えぬものだ) こうして鍵吉は自らを家茂の遺臣と称し、公職を辞して道場を興す。

2023-10-29 14:55:08
エリザ @elizabeth_munh

そして門には『征夷大将軍徳川家茂公』と掲げ、木像を置き、誰でもここを通る者には必ず礼をさせた。これは後に戊辰戦争で勝利した薩長軍が江戸に進軍してきても変わらず、戦勝に驕った薩長軍兵士と言えども鍵吉の気迫を前には顔面蒼白になるばかりだったと言う。

2023-10-29 14:58:40
エリザ @elizabeth_munh

やがて戊辰戦争が終わり、上野で彰義隊が決起しても鍵吉は参加しなかった。 「大義が立たない。徳川の玉がないのに将棋が出来るか。ただ、担ぎ出された宮様はお救い申し上げる」 主人を失った御家人たる鍵吉は彰義隊に旗頭として担がれた親王を救出し、背負いながら追手を斬り捨てる活躍をする。

2023-10-29 15:02:38
エリザ @elizabeth_munh

「まるで大木に捕まっているようだった」 と、親王は後に述べる。 その後、鍵吉は駿府に謹慎する徳川家と、彼らについていく旗本御家人と行動を共にした。慶喜は家達に家督を譲っており、家達の命令には鍵吉も従う。 しかし家達に付き従った旧幕臣達のモラルは最悪の一言に尽きた。

2023-10-29 15:05:07
エリザ @elizabeth_munh

彼らは徳川家と共に心中する覚悟でいた人達か、徳川の世が消えてどうすればいいのか分からない人達で、新しい世に身の置き所もなく、自暴自棄に陥って酒色に流れる。そんな最中、事件が起きた。 「海道一の大親分、清水次郎長の妻を旧幕臣の武士が斬り殺しただと!?」

2023-10-29 15:08:39
エリザ @elizabeth_munh

かつて遊女だった次郎長の妻おちょうと関係があった、もと旗本の木暮半次郎と言う武士が、金子の無心を断られた事に腹を立て、その場でおちょうを斬り殺したのだった。 半次郎は逃亡、次郎長配下の子分達と激しい斬り合いになり、派手に暴れた後斬り殺される。

2023-10-29 15:12:08
エリザ @elizabeth_munh

次郎長の子分は数千人を数える。筋で言えば幕臣側に非はあるものの、自ら半次郎を処分する機会を失い、ヤクザ側に殺された以上、メンツにかけても下手には出られない事情がある。 (厄介な事になった……) 流石に復讐戦をやる気はないものの、ヤクザ側が半次郎1人で満足しない場合は、戦争となる。

2023-10-29 15:15:29
エリザ @elizabeth_munh

一触即発の空気が漂う中、次郎長が単身、鍵吉を訪問する。そして開口一番こう言った。 「この度はまっこと申し訳ごぜえません。そちらの配下のお侍を、こっちの勝手で殺してしまい」 次郎長は怒って詰るどころか、詫びを入れてきたのだった。

2023-10-29 15:18:17
エリザ @elizabeth_munh

(……流石は海道一の大親分、男だな) 旧幕臣のメンツにかけても先に詫びる事ができない鍵吉達に配慮し、敢えて大将自ら詫びを入れてきた次郎長に鍵吉は感服する (ならば、こちらから出来る事は…) 少し考えた後、鍵吉は口を開く 「……何か行き違いがあるようで、そのような武士を拙は知りませぬ」

2023-10-29 15:21:10
エリザ @elizabeth_munh

「木暮とお武家様方は無関係、と?」 「左様。素浪人が無作法を働いて討たれただけ。故に詫びる必要はござらぬ」 2人は見つめ合い、互いに微かに笑いあった。 「……左様で。ありがとうごぜえます。これで、無意味な血を流さずに済みました」 以後、鍵吉は博徒達から一目置かれる。

2023-10-29 15:24:13