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「パラダイムの並立、つまり共約不可能性が常態となった現代においては、相互の対立の解消、すなわち唯一絶対の公理系たるべしという合目的性を、学問の体系性に求めること自体が否定されるのである。その際、リチャード・ローティが「われわれにとって対話の『成功』とは、
2023-11-25 19:16:16たんにそれを『つづけること』以外にありえない」と、また室井尚が「われわれは説得を続けなければならない。だが、それは別の(差異の隠蔽としての)説得に出会うためである」と述べるように、学問は差し当たり、最終到達点のない、不断の対話と説得の「通過」過程、
2023-11-25 19:19:31一種の言語ゲームと見なされるほかにない。そして、いかなるゲームであっても、ゲームは変化に富む方が実り豊かではないだろうか。」 (中村三春『フィクションの機構』p30)
2023-11-25 19:20:40「高橋の言う自然科学は、厳密には、パラダイムの与える課題を解決する科学を指す、クーンのいわゆる「通常科学」(normal sciences)の水準に過ぎない。研究対象そのものや、その対象を指示する術語すら、パラダイムによって初めて考案されるのであり、
2023-11-25 19:46:02高橋の信念に反して、新たなパラダイムにおける研究対象は、必ずしも旧来の対象と同じであるということはできない。」 (中村三春『フィクションの機構』p38、39)
2023-11-25 19:46:42「コミュニケーションとは、本来、痕跡と痕跡との間の不断かつ終わりのない同定作業の連続であり、これを便宜的に、行為・結果・表情などの非言語情報を動員して、ある慣習的な水準を満たせば十分なものとしてプラグマティズム的に処理し、
2023-11-29 14:37:46「また、指示対象の有る無しは、語・文・テクストの表面のみから理解することは不可能であり、何らかの「見知り」による検証(test)を待たなければならない。なぜなら、小説や劇において存在するものと、旅行案内や伝記において存在するものとは、
2023-11-30 21:24:47「「ごっこ遊び」理論は、虚構を積極的に遊びとして規定するがゆえに、これに従うならば遊びと非-遊びとの境界を厳密に設定する方向へと進まざるをえない。だが、むしろ遊びと非-遊びとの境界線が曖昧であり、
2023-12-01 11:33:59はっきり言って不明であるからこそ、虚構は現実以上の衝撃力を発揮することができるのではないだろうか。」 (中村三春『フィクションの機構』p113)
2023-12-01 11:34:28事実もまた「虚構からの事実」にほかならないのである。科学と芸術との根源的な区別が存在しないとすれば、主張における「正常」と「寄生的」の区別もまた無意味となる。科学と芸術とは、それらが人為的な<ヴァージョン>であり、
2023-12-01 21:59:31解釈を通じて、了解に至ったということの決定的な証拠を言うことはできない。従って、解釈がすべてなのである。解釈は果てしなく続き、テクストの意味はその都度、「通過理論」としてのみ提出される。人間間のコミュニケーションも、原則的にはこれと同じである。 中村三春『フィクションの機構』p133
2023-12-01 22:14:39「言葉にとって、むしろ、「かのように」的な、中性的な静観性こそが原初的なのである。言葉が引用と反復によって現実に使用され受容されるときに、言葉は原初的な静観性から逸脱し、ある場合には非静観性(実用性)を偽装し、各々のジャンルが出現すると言うべきである。」
2023-12-01 22:29:28この見方に従えば、ロシア・フォルマリズムの主張に反して、芸術言語を日常言語の<異化>された形として理解するのではなく、むしろ日常言語こそ、虚構の小説言語の<自動化>した形として考えるべきだろう。 (中村三春『フィクションの機構』p149)
2023-12-02 10:24:22「私たちには、手持ちの、差し当たりの虚構的仮説としてのフレーム(<ヴァージョン>、概念図式)しか与えられていないのだが、共時的にはその外側に出る術はなく、取り敢えずはそれに従い、通時的にそれを更新していくほかにない。しかも、その更新が完成に達することもまずありえない。」
2023-12-02 10:40:58