エリザ氏による、産業革命期のイギリスで食品汚染禍の告発を行い、失意の内にドイツに帰国したフレデリック・アークムの業績の紹介

92
エリザ @elizabeth_munh

いんたーねっとRAFちゃんねる

エリザ @elizabeth_munh

19世紀初頭、イギリス料理は不味かった。 ドイツから渡って来た化学者は余りの不味さに真剣な面持ちで購入した食品を睨む。 「まずいな……」 パン、チーズ、ビール、ワイン、コショウ、酢、菓子、クリーム、茶……。ありとあらゆるものが不味かった。 「……命に関わるぞ」 1820年、イギリスはロンドン。 おおよそ口にし得るありとあらゆる物に毒物が添加され、市民は日々、緩慢に死へと向かっていた。

2023-12-03 13:32:39
拡大
エリザ @elizabeth_munh

フレデリック・アークムはドイツの小邦、シャウムブルク・リッペ生まれの化学者。父はユダヤ人だったものの、プロテスタントに改宗してシャウムブルク伯に仕え、アークムが僅か3歳の時に亡くなる。 一刻も早く独り立ちせねばならなくなったアークムはギムナジウムで英語を学び、薬局に徒弟奉公に入る pic.twitter.com/QO0lV4U0n3

2023-12-03 13:32:56
拡大
エリザ @elizabeth_munh

そのまま国を跨いで手広く商売していた奉公先の家の紹介で23歳の時にロンドンに渡り、やがて解剖学校で科学と医学を学んだ。 当時ロンドンは科学と産業の世界最先端であり、また、薬局は市井の科学実験室を兼ねている。アークムは自分のための実験室と、実験装置製作所を作り、知見を深めた。

2023-12-03 13:32:57
エリザ @elizabeth_munh

研究所の教授となり、ロンドンの科学者達とも知りあって論文を発表し、著作は好評と順風満帆の人生を送るアークムはしかし、ロンドンに来た当初からある懸念を抱えていた。 「食品の品質が悪い……。混ぜ物入りでないものを探すのが難しいくらいだ」 当時、ロンドンは産業革命に沸く。

2023-12-03 13:32:57
エリザ @elizabeth_munh

仕事を求めて農村から流入した人口でロンドンは過密状態となり、衛生状態は急速に悪化。住居も足りずホームレスが路地に溢れ、疫病も蔓延。この頃、従来25%に過ぎなかった都市人口は50%に上昇し、更に増え続ける。 急速に増大した都市人口は食糧の安全問題をも引き起こした。 twitter.com/elizabeth_munh…

2023-12-03 13:32:58
エリザ @elizabeth_munh

『2ペニーの二日酔い』と聞くと安酒を煽って身を持ち崩す人を想像するでしょう。しかしこれは酒の名前ではなく、宿の名前だった。 ヴィクトリア朝時代、豊かなロンドンを目指して地方から人口が殺到。過密状態のロンドンはホームレスで溢れた。彼らは野良犬のように野宿し、冬は凍える寒さに晒される pic.twitter.com/KhKYFenfqO

2022-11-14 18:16:10
エリザ @elizabeth_munh

中世であれば生産者と消費者の距離は近く、悪事を働けば誰がそれをやったかは明らかであり、監視の目が届いて食の安全は保たれる。 しかし急速に人口が流入し、1801年には百万都市に達してヨーロッパ一の都市となり、それでもまだ増加止まぬロンドンでは両者の距離は急速に離れ出す。

2023-12-03 13:32:58
エリザ @elizabeth_munh

小売店が急速拡大し、誰が作ったかわからないものを誰かが加工し、何も知らない小売店が販売するようになると、ロンドン中に粗悪な食品が溢れかえる。ロンドンに来た当時からアークムはこれに気づいていた。 そんなある日、彼の元に小売店から茶葉が持ち込まれる。

2023-12-03 13:36:13
エリザ @elizabeth_munh

「ウチで売ってる茶葉がおかしいってお客さんが。調べてくれないと怖くて売れないよ」 事のきっかけは乾物屋から茶葉を購入した雑役メイド(余り豊かでない階層に雇われるメイド。最も数が多く貧しい)が、茶葉に湯を注いだところから始まる。

2023-12-03 13:39:15
エリザ @elizabeth_munh

環境汚染激しい霧の都ロンドンで気管支炎を患っていた女性は、症状を和らげるとされて薬扱いされていた炭酸アンモニアをひと匙、紅茶に注ぐ。当時紅茶は嗜好品ではなく万病に効く薬扱いで、臭いのキツいアンモニアと一緒に摂取するのは一般的だった。 ところが途端に紅茶は毒々しい青色に染まる。 pic.twitter.com/OJYhoRHbgH

2023-12-03 13:42:10
拡大
エリザ @elizabeth_munh

流石に身の危険を感じた女性はそれを飲まず、乾物屋に苦情を言って、それがアークムの元へと届けられたのだった。 仔細に調べたところ、アークムは絶句する。 「……微量の銅が混ぜられている。青く染まったのは、アンモニアと反応して銅アンモニア錯体になったからだ」

2023-12-03 13:44:19
エリザ @elizabeth_munh

そもそもティーレースもやっていない頃で、茶葉は大変な高級品であり、本来庶民が買えるようなものではない。にも関わらず買えたのは、上流階級が消費した出涸らしを使用人が回収し、役得として業者に売っていたからだった。 一度使った茶葉の見た目は当然悪い。 note.com/elizabeth_munh…

2023-12-03 13:48:20
リンク note(ノート) 19世紀の炎上事件。リーズのドリッピング暴動|エリザ 牛肉を焼いた時に出る脂肪をドリッピングと言い、イギリスではこれを貯蔵してパンに塗りつけたり、料理用の油として再利用する習慣がある。 ところがこのドリッピングが元で大騒動になった事があった。それが、リーズのドリッピング暴動。 1865年、イングランド北部ヨークシャーの大都市リーズの治安判事チョーリーに仕えていた女料理人、エリザ・スタッフォードは、料理の副産物として得られるドリッピング0.9キロを地元の洋裁師に売った。使用人がこうした役得にありつく事は当時珍しくなく、たとえば執事なんかはワインをがめてたりする
エリザ @elizabeth_munh

それを新品同様の見た目に戻すため、業者はさまざまなものを混ぜた。その一つが銅で、茶葉の葉緑素と結合し、色素を強化する効果があり、使い古しの茶葉の外観を新品同然に装う。 しかしもちろんそれは見た目だけのことに過ぎない 「日頃から飲むものに銅が含まれていれば、銅中毒の危険があるぞ…」

2023-12-03 13:51:33
エリザ @elizabeth_munh

嵩増しのための不正は昔からあった。しかし黎明期にあった化学と、それに無知な庶民、そしてバレないのをいい事に利潤最優先で不正を働く商人達が組み合わさり、最悪の状況を招く。薬と言われるものですら危なかった。 「冗談ではない! 化学が悪用されている!」 こうしてアークムは立ち上がる。 twitter.com/elizabeth_munh…

2023-12-03 13:54:54
エリザ @elizabeth_munh

スティルルームとは聞き慣れない言葉だと思う。 薬品の調合を行う蒸留室をスティルルームと言い、ここで働くメイドをスティルメイドと言った。家事一般が女性の仕事とされた時代、家庭医療は女性の職分であり、そのための専用の部屋も裕福な家庭にはあったのね。 pic.twitter.com/BE5YGOas7N

2022-10-31 20:20:39
エリザ @elizabeth_munh

スティルルームとは聞き慣れない言葉だと思う。 薬品の調合を行う蒸留室をスティルルームと言い、ここで働くメイドをスティルメイドと言った。家事一般が女性の仕事とされた時代、家庭医療は女性の職分であり、そのための専用の部屋も裕福な家庭にはあったのね。 pic.twitter.com/BE5YGOas7N

2022-10-31 20:20:39
拡大
エリザ @elizabeth_munh

こうしてアークムは広く大衆に添加物や混ぜ物の危険性を周知し、身近なものでその安全性を確かめる方法を述べた著作、"There is death in the pot"(鍋の中には毒がある。旧約聖書から引用)を出版する 「パンにはミョウバン、ビールに硫酸鉄や、ワインには鉛、或いは硫酸、茶には銅が混入している!」 pic.twitter.com/I2vnyEFaTH

2023-12-03 14:00:34
拡大
エリザ @elizabeth_munh

「こんなのはごく一部だ。大人はまだいい。抵抗力の弱い子供が危険な食品を日常から摂取してどれだけ死んだか!」 事実、ヴィクトリア時代の子供の死亡率は異常に高く、その少なからぬ要因を悪意に満ちた食品が担っているのは明らかだった。 「社会が一丸となって食品偽装と戦わねばならない!」

2023-12-03 14:04:08
エリザ @elizabeth_munh

アークムは実例として食品偽装を行った業者を書き連ね、地位も名誉もある化学者でありながら闘争的な姿勢で訴えかける。 本は大変な評判となり、食品業界に激震が走った。これまで何度か同じような提言はあったものの、全ては業者と癒着する腐敗した政治家に握りつぶされてきた。

2023-12-03 14:07:01
エリザ @elizabeth_munh

アークムはそうではなく、広く大衆に警鐘を鳴らすという形で利潤最優先の業者に挑戦状を叩きつけたのだった。 「財布を盗んだものは死刑だ! しかしコミュニティを緩慢な死に追い込む毒を盛る連中は裁判にもかけられない!」 知識層はアークムを支持し、本は外国語訳までされて売られた。

2023-12-03 14:09:39
エリザ @elizabeth_munh

しかしこうした闘争的な態度は業者と、それに連なる政治家の怒りを買う。 化学では反論できない彼らはアークムの検証のやり方がおかしいと言い募り、アークムの世評を落とそうとした。 「奴はペテン師だ! 耳を貸すな!」 それでもアークムは折れずに立ち向かう。

2023-12-03 14:12:08
エリザ @elizabeth_munh

最終的に業者と政治家はアークムを全く関係のない事で訴えた。 「国立図書館の本のページを破り取った罪で訴える、だと……」 訴えられるなら喜んで法廷に立ち、化学に基づいて反論してやろうとしていたアークムは呆気に取られる。 「あくまで私に何も話させない気か。私はただ、庶民のために……」

2023-12-03 14:14:57
エリザ @elizabeth_munh

アークムは心折れ、出頭する事なくドイツに逃げて二度とイギリスに戻る事はなかった。彼は利潤やメンツを庶民の命より重んじて憚らないイギリスに失望したのだった。 うるさいアークムを追放して腐敗政治家と悪徳業者はホッと胸を撫で下ろす。しかし、時計の針は既に進んでいた。

2023-12-03 14:16:55
エリザ @elizabeth_munh

「ただの紛い物ならまだしも、有害なものを口に入れられるか!」 彼を契機として食の安全への関心が高まり、アークムの後継者達が次々と立ち上がる。アークムの敗北を見ていた彼らはより巧妙に立ち回った。 徐々に無法な添加物に対する意識が高揚し、品質に対する規制が議論される。

2023-12-03 14:19:23
エリザ @elizabeth_munh

最終的にヒ素の混入による大規模な食中毒事件が起こり、200人以上が被害に遭う大惨事を受けて大衆は遂に悪徳業者と腐敗政治家に怒りを叩きつけた。 こうして食品の安全のための規制へとイギリスは踏み出し、法整備が始まる。しかしきっかけとなったアークムは忘れ去られた。 twitter.com/elizabeth_munh…

2023-12-03 14:22:38
エリザ @elizabeth_munh

おはよう。今朝のTIPS。 ヒ素はよく知られた毒物だけど、中毒者はありふれた病気であるコレラと似た症状を引き起こした末に死ぬ事から、ヨーロッパでは伝統的に暗殺の道具として用いられた。暗殺を多用したと言われるイタリアのボルジア家の『ボルジアの毒』もヒ素と言われる。

2022-08-19 06:31:43