本覚思想と梵我一如

5
KumarinX @KumarinX

この問題こそ「批判仏教」が提起したテーマです。結論は一つとは言えないので経緯をお話します。RT: @70702: ~「人の本質は悟り、仏性」という本覚思想って、突き詰めるとヒンドゥー教の梵我一如の教えになってしまうような気がするんですが、違いはあるのでしょうか?

2010-05-21 15:19:12
KumarinX @KumarinX

本覚思想と梵我一如1> @70702 「批判仏教」では仏性のある場所を文献学的に「基体」とし無始以来永遠な本体としたので「如来蔵思想以降は仏教ではない」ということなりました。ご質問のようにヒンドゥー教の梵我一如と変わらないとされたのです。しかしこれはあくまで文献学上での話です。

2010-05-21 15:19:56
KumarinX @KumarinX

本覚思想と梵我一如2> @70702 ではなぜその本覚思想が出てきたのでしょう?初期仏典に釈尊の説法を聞いて阿羅漢になる人の話が出てきます。パターンを見るとまず施・戒・生天を説き、聞き手が業報思想と因果の道理を理解すると四聖諦を説きます。その結果清浄無垢の法眼が生じます。

2010-05-21 15:21:02
KumarinX @KumarinX

本覚思想と梵我一如3> @70702 その人が同じ説法をもう一度聞いた時かまたは釈尊の話を正しく思惟したとき、忽然と執着を離れ心が諸々の漏より解脱して阿羅漢になる。つまり誰でも正しく道を歩めば仏になるということ。この類型から釈尊が厳密に定義しなかった様々な思想が生まれます。

2010-05-21 15:22:44
KumarinX @KumarinX

本覚思想と梵我一如4> @70702 業報因果が前提ですから釈尊が厳密に定義しなかった果に対して後続の弟子たちが因果の定義を与えていくのです。如来蔵思想もそのひとつです。なにしろ誰でも悟るのですからその因が凡夫である生身の衆生に備わっているのではないか?と。

2010-05-21 15:23:12
KumarinX @KumarinX

本覚思想と梵我一如5> @70702 釈尊は弟子たちに聞いた事がない説を他の比丘が唱えたらどう判断するのが正しいのかを涅槃経で述べています「喜んで受け取ることもなく、また排除することもなく、それらの文脈を正しく良く理解して、経典にひき合せ、戒律に参照吟味すべきである」4章11偈

2010-05-21 15:23:41
KumarinX @KumarinX

本覚思想と梵我一如6> @70702 この判断の方法が受け継がれ聖典の話し手である釈尊の意図を優先させる手法が nītārtha/neyārtha (了義・未了義)によるアーガマの選択・峻別の思想として確立されます。そして聖典は口伝で伝承され文献ではなかったのです。

2010-05-21 15:25:18
KumarinX @KumarinX

本覚思想と梵我一如7> @70702 参照吟味の結果、未了義として分別された表現は、明瞭な一義的な意味をもった経典の〈ことば〉と矛盾を起こすので当然排除され、それは隠されたより深い、決定的な意味を表示し、最後にそれは釈尊の明確な意図 (vivakşā) によって規制されます。

2010-05-21 15:25:59
KumarinX @KumarinX

本覚思想と梵我一如8> @70702 法称の仏教論理学は言語表現の決定要因は、指し示す対象の有無のみならず、話し手の意図 (prayoktrī vivakşā) にあるから、意図はときに通常の語用 (laukikī vivakşā) を外れた用法をも正当化出来るとしました。

2010-05-21 15:26:56
KumarinX @KumarinX

本覚思想と梵我一如9> @70702 David Seyfort Ruegg はその著(http://amzn.to/9F8eE6)で如来蔵系の経典や論書がアートマンを説きながら、バラモン思想のアートマンとは異なることを意図性、未了義で解決を図ろうとしていることに注目しています。

2010-05-21 15:27:35
KumarinX @KumarinX

本覚思想と梵我一如10> @70702 さぁ、どうでしょうか? Ruegg の指摘する法称(ダルマキルティ)の論法によれば「批判仏教」で仏教ではないとされた流れも仏教として復権できることになる。私は一僧侶で学者ではない。仏教学の成果に真摯に耳は傾けますが判断は皆さんに委ねます。

2010-05-21 15:28:19
KumarinX @KumarinX

何年か前にブログにこの話し手の意図について書いたとき石飛道子さんから応援のコメントを頂戴しヴィヴァクシャー、ラクシャナーはニヤーヤ学派でも論じられていることを教えて戴いた。この解釈は法称のその場しのぎなどはなく、長い間に構築されたインドの言語理論に沿ったものだと考えている

2010-05-21 15:47:56
@70702

@kuma_rin そうすると、文献学上は本覚思想は、仏教ではないが、言葉の裏に隠された釈尊の深い意図があるかもしれないですから、簡単に「本覚思想は誤り」とは断定できないということでしょうか?

2010-05-21 15:57:23
KumarinX @KumarinX

.@70702 大乗思想と括って記号化すれば習慣が思想を覆う仏教のヒンドゥー化なのでしょうが、実際の流れは時にバラモンの宗教に憧れ、時には上座部以上に釈尊に迫るなど、他者との論争にも影響を受けつつ複雑なものだったと思います。時と場合に応じて簡単に誤りと断定すると損失もあるでしょう

2010-05-21 16:06:55
佐藤哲朗(nāgita) @naagita

@70702 本覚は仏教からの逸脱でしょう。そのような逸脱を包み込んで、仏教枠内に回収していく営みが仏教思想史の豊饒を齎しました。一方、複雑な概念操作によって仏教は不明瞭になり実践性も失われました。観念上で一切衆生を救った気になった所で、現実の衆生の苦は一ミリも解決しませんから。

2010-05-21 21:12:50