2/3 山梨文化学園歴史文化教室「信玄、祈りのかたち―武田不動尊像と刀八毘沙門天像―」所感

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日光81 @nikko81_fsi

本日はこちら。武田不動尊関連で論文や図録の寄稿にて、よくお名前を見かけていた鈴木麻里子先生のお話。演壇に立たれるの、珍しいかな?わたしはお初でした。造型や意匠といった美術としての観点を中心に、また新たな武田不動尊と刀八毘沙門天についての理解が深まりました。 pic.twitter.com/xK5nM1puVl

2024-02-03 16:56:32
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日光81 @nikko81_fsi

①武田不動尊。当初甲府の屋形に安置されていたのを改めて恵林寺に移した、と考えられる理屈を改めて理解。勝頼を願主とする不動明王像の開眼供養が「大聖不動明王安坐開眼拈香法語」として残っており、恵林寺での開眼供養が天正2年3月27日に行われている、ということと… twitter.com/nikko81_fsi/st…

2024-02-03 17:05:27
日光81 @nikko81_fsi

荻生徂徠が宝永年間に当時の恵林寺住職から聞き取った内容が「風流使者記」にあり、信玄尊像(不動明王像)が小松旧館にあると聞いていたこと、公式的な信玄葬儀だけではなく、喪を秘していた時期も内々に年忌供養を行っていたこと…からの推測。なるほど…3月27日という日付もポイントだね。

2024-02-03 17:08:25
日光81 @nikko81_fsi

改めて不動明王像の造型としては、巻髪の毛まで金泥で表現されている細やかさと、不動明王像としては珍しい、弁髪の短さを認識。ここしばらく襟足を少し伸ばしていて、像もちょうど今のわたしくらいの長さ。わしひょっとしたら武田不動尊コスプレ中!?とかアホなことを考えるなど。わしも天パだしさ←

2024-02-03 17:13:17
日光81 @nikko81_fsi

二童子像含め、実は失われたパーツがあったらしいことは初めて知った。明王像は胸飾や臂釧(ひせん、二の腕の腕輪のこと)、腕釧(わんせん、手首の腕輪のこと)があったらしく、取り付け穴があるそうだ。事実、矜羯羅童子は胸飾は失われているものの、臂釧・腕釧が残っている。明王のはどうだったか。

2024-02-03 17:18:25
日光81 @nikko81_fsi

ちょうどわたしが甲府にきたころにやっていた「武田信玄の生涯」展の事前調査でわかった像内の墨書。あれちょうど顎のあたりにあるそうだ。

2024-02-03 17:20:09
日光81 @nikko81_fsi

瑟瑟座と呼ばれる井桁に組んだ台座。ここにも武田花菱が金属板でたくさん配され、真ん中は縦に輪宝文。これ左肩から右脇へ巻いている条帛と同じ、輪宝文+武田花菱。相当武田菱だらけ。こういうところから武田領国全体に向けたメッセージ性を読み取るのは自然なことだなと実感。

2024-02-03 17:26:13
日光81 @nikko81_fsi

②刀八毘沙門天と勝軍地蔵。由緒自体はもちろん、知っているけど、円光院蔵の元和元(1615)年と宝暦9(1759)年の縁起全文をご紹介頂いたのが有り難い。元和の縁起は開山説三和尚の弟子である二世・明院玄昉。縁起としては、かなり早い段階で直接信玄を知る説三と関わりのある人物。 twitter.com/nikko81_fsi/st…

2024-02-03 17:30:06
日光81 @nikko81_fsi

…となると、ある一定の信頼性はあるだろう、と推測するのは理解できる。が、この縁起で気になることがいくつかあって…信玄の病状が悪化したのを「三州上村の城」としている。三河の上村城…岡崎の北、三河上郷のあたりとすれば、流石にこれはちょっと実態とは乖離。他に三河上村あるだろうか?

2024-02-03 17:37:33
日光81 @nikko81_fsi

今ひとつは、本像を円光院に届けるよう命じられた馬場美濃守。本史料では「信房」とある。いわゆる一次史料からみえる諱は「信春」とされているけど、「信房」名のかなり早い段階の事例ではないだろうか。馬場美濃守没後40年。これによれば、喪を秘して円光院に送り葬る指示を馬場美濃守に出している。

2024-02-03 17:41:01
日光81 @nikko81_fsi

で、馬場は円光院の門前に葬ったとしている。この史料の正確性をどう考えるかだけど、仮に正とするならば、岩窪の信玄墓の捉え方も変わったりしないかな?もちろん、信玄死後40年ほどとはいえ、必ずしも事実を反映しているとは言い得ないものの…

2024-02-03 17:44:06
日光81 @nikko81_fsi

さて、この史料だと、元和元年時点では年紀と仏師は不明と明記してあるのだけど、宝暦の縁起では明確に「七條大佛師宮内卿法印康清」「永禄八巳年(ホントは丑)」とある。これをどう解釈するか。

2024-02-03 17:48:15
日光81 @nikko81_fsi

康清の名乗りの表記、特に「条」か「條」かというあたりに着目した点から、宝暦年間でわかった経緯の推察は個人的には納得できたご説明。ポイントは厨子が後補だということと、康清の名乗りの他の事例との比較が重要でスッキリ。

2024-02-03 17:50:17
日光81 @nikko81_fsi

武田不動尊との比較では、同じ屋形の鬼門に建てられた毘沙門堂と不動堂の大きさが、像の大きさと逆で毘沙門堂が大きい点も確かに示唆的で興味深い。数野先生の回でも指摘があったけど、義信屋敷を解体してつくったことに、甲陽軍鑑ではなってんだよね。

2024-02-03 17:53:14
日光81 @nikko81_fsi

像が先にあってそれを安置する堂ではなく、先に堂があって…逆に不動堂は先に像があって、それを安置する「ための」堂と考えると、その違いが興味を引く。

2024-02-03 17:55:05
日光81 @nikko81_fsi

造型面では、セットで像を制作する場合、髪際高(はっさいこう)という仏像の額の髪の生え際を揃えるなんていう知識も仏像素人には新鮮。

2024-02-03 17:58:13
日光81 @nikko81_fsi

刀八毘沙門天の貴重なアップ画像を見せて頂き、左右の忿怒相は阿吽になっていたりだとか。正面の顔が正面から見て目が合うのに、左右から見ても目が合うようにみえる、いわばトリックアートみたいな仕掛けになっているだとか、ぱっと見ではわからない趣向が凝らされているのを知る。

2024-02-03 17:59:35
日光81 @nikko81_fsi

意匠面での武田不動尊との比較だと、勝軍地蔵も含め、こちら全く像に花菱がないんだよね。そういうところも武田を印象づけるメッセージ性の要らない、個人の祈祷のための像とみなすのは納得だし、不動尊と鮮やかな対比になって面白い。

2024-02-03 18:02:18
日光81 @nikko81_fsi

③質問1。岡谷の照光寺に伝わる、武田勝頼念持仏という千手観音との類似性が気になっていたのだけど、素地に截金というのは小振りの像に多いそうで、必ずしも円光院蔵の刀八毘沙門天と勝軍地蔵両像と照光寺千手観音像を結びつける契機にはならないか。okaya-shokoji.com/jiho/ twitter.com/nikko81_fsi/st…

2024-02-03 18:06:54
日光81 @nikko81_fsi

質問2。毘沙門天と勝軍地蔵をセットで祀る形態は、京都東山の清水寺でも鎌倉時代の造立で事例あり…が、どうも他にはなさそうとのこと。清水寺には信玄・義信の祈祷返礼文書があり、また信玄旧蔵との伝承のある清水寺式十一面千手観音像が日光山輪王寺にあり、清水寺との関わりを探る上で要注目。

2024-02-03 18:11:00
日光81 @nikko81_fsi

多聞院日記にも清水寺との昵懇ぶりが書かれてあるし、ますます目が離せないな…

2024-02-03 18:15:58