松井康之さんのお話

リアタイで聞き逃したので勝手にまとめさせていただきました! 漏れがあったらすみません。
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@m2i046

なんやどうも私以外の細川家臣は私以上に知られてへんみたいやから、人が少ないけど今日はこれを話そかいな。よう話のネタにしとるし

2011-12-23 20:22:25
@m2i046

近世細川家は幽斎さまが祖やと言われとって、忠興さまが二代目やね。みんなが混乱する京兆細川家とは関係がないいうことが最近の研究で徐々にわかりつつあるみたいやな

2011-12-23 20:23:53
@m2i046

細川家がきちんと主従の線引きをしっかりして、組織化をはっきりさせるんは他家と同じく徳川幕府が立ってからやねんけどな。それでも一応私と有吉、米田家は三家老として扱われとってな

2011-12-23 20:26:00
@m2i046

私の下で番頭が有吉立行、忠興さまのすぐ下の弟であられる興元さまの下で番頭が米田是政。松井組は右、玄蕃……興元さまは玄蕃頭やったからこう言うねんけど、玄蕃組は左備え

2011-12-23 20:27:01
@m2i046

有吉家だけ譜代でな。幽斎さまの二代前から仕えとるねんけど、そんときの苗字は佐々木。説明めんどいから省くけどまあいろいろあって有吉にせえ、と命令を受けたんやね

2011-12-23 20:28:54
@m2i046

どこから話したらええんかわからんくなってもうた。一人ひとり言うか

2011-12-23 20:30:56
@m2i046

普段私が立行立行言うとるんは有吉立行のことで、こいつがな……ほんっまあほでな……。1557年生まれやから、私の七つ下。どうしようもなく間抜けやったんやけど、まあとりあえず忠興さまにつけて様子見やな、って忠興さまの遊び相手になってん

2011-12-23 20:32:55
@m2i046

あれは忠興さまが三つんときやから……ええと、立行が九つやな。忠興さまが川の対岸に行きたい、言わはって、でも橋がなくてな。立行が忠興さまを肩車して対岸まで運ぼうとしたんやけど、川が立行の身長より嵩が高くてなあ。あいつ沈みよってん

2011-12-23 20:34:53
@m2i046

忠興さまが呼びかけても応答なし、沈んだまま対岸まで運んだら意識がなくて、他の家臣に叩かれたり腹殴られたりしてやっと意識取り戻してなあ。忠興さまは「この男ただものにあらず」って言うたらしいけど、三歳児がそんなこと言うたほうがなんや……いやそれはええんやけど

2011-12-23 20:37:29
@m2i046

あとびっくりしたんは、家臣同士で喧嘩して、ちょい面倒なことになったことがあってなあ。幽斎さまが藤孝さまやった時分やねんけど、あいつ、「殺したら藤孝さまが助かる!」って安直なこと考えて、その家臣殺してもうたんよね。あいつが十三のときやったかな

2011-12-23 20:39:48
@m2i046

結局それは藤孝さまを助けることになったから褒められたんやけど。あいつほんまぼけぼけや……火縄銃の扱いに長けるようになったんはえかったけど

2011-12-23 20:40:37
@m2i046

でもあいつ、一回沈んで意識失ったあとはまだましになってんな、あれでも。

2011-12-23 20:44:33
@m2i046

是政のほうは米田是政いうねんけど、「よねだ」やなくて「こめだ」な。父は求政どので、この求政どのと藤孝さまが同じ師のもとで習うたんや。清原いとてここにもおるやろ、あん人の祖父の下でな

2011-12-23 20:46:31
@m2i046

求政どのは医学にも精通してはって、義昭さまの救出に医者のふりして向かったんはこの方や。もともとは足利の御膳衆やってんけどな。信長さまにつくべきやと諫言した藤孝さまと一緒に蟄居を命じられて、それからは藤孝さまの家臣にくだりはった

2011-12-23 20:48:33
@m2i046

やから私の同僚でもあったんやね。同僚いうても立場はちゃうけど……藤孝さまは奉公衆、求政どのは御膳衆、私は義輝さまの小姓。

2011-12-23 20:49:20
@m2i046

その求政の息子の是政はなんや私をきらっとってなあ、はは。でも青龍寺城下で与えられた屋敷は隣同士で、私の組の番頭が是政ではなく立行に命じられたように、藤孝さまも忠興さまも切磋琢磨したら幸運、みたいな感じやったな

2011-12-23 20:51:08
@m2i046

でも秀次さまの事変のときに私がまあなんやかんややったんやけど、それにいたく感心してくれてなあ。何かあるたびにその話出してきて、私が恥ずかしいくらいやったわ。それからはわりと良好な関係やね

2011-12-23 20:52:28
@m2i046

小笠原秀清どのは玉さまの自害……おっと、切支丹は自害はご法度やったな。まああんときにともに亡くなった方で、この方ももともと足利の幕臣や。有職故事に詳しい方でなあ、まじめな方やで

2011-12-23 20:54:26
@m2i046

沢村吉重……通称の大学のほうがよう使われとるかな、こいつは一兵卒から武功をあげて徐々にあがってきた奴でなあ、最終的に重臣になったくらいで、気のええ奴や。細川に仕え始めたんは天正十年

2011-12-23 21:01:00
@m2i046

……なんや変な方向にタイムラインが盛り上がっとるから言わへんかったことも言おうか? 立行は忠興さまの遊び相手であるとともに、そういう相手を命じられたとされてんで

2011-12-23 21:02:55
@m2i046

それは余談やけど。えーと誰まで……ああそうそう

2011-12-23 21:03:22
@m2i046

細川に武蔵を推薦したんは沢村やと言われとるな。沢村からうちの息子の興長、そこから忠利さまに伝わったとされとる

2011-12-23 21:04:45
@m2i046

あと加賀山も説明しとこかな。加賀山隼人興良はいつぞやも言うたけど、興良の興が忠興さまから拝領したものでなあ。うちにきたんは1598年。召し抱えたときの最初の禄高は三千石で、熱心な切支丹や

2011-12-23 21:06:56
@m2i046

秀清どのの息子さんと、加賀山の娘さんが結婚したり、かなり忠興さまにはかわいがられとるね。秀清どのの息子さんは忠興さまの妹御であられる伊也さまの娘さんと婚姻されとって、ちょい遠いけど細川の親戚筋言うてもおかしくはない

2011-12-23 21:08:30
@m2i046

こいつはなあ……ほんに……家族ぐるみで熱心な切支丹で、麝香さまは切支丹が正直なところきらいやって、興元さまが切支丹になる言うたときもそれはもう反対したもんやけど、加賀山の影響で1602年に改宗しとるからな。洗礼名はマリアやで

2011-12-23 21:10:23