東日本大震災発生当時中学生だった、すたっふりんごさん(@ringoo_kk)の貴重な体験談の投稿です。
3月11日、私はあのとき、陸前高田市の学校に通う中学生でした。今年もあの時のことをここに残そうと思います。普段はあまり話さないけれど、今日は語り合う日に。 #東日本大震災から13年
2024-03-11 06:25:303月11日、午前中は新しい体育館の落成式でした。午後は、その体育館で全校生徒での卒業式練習。体育館にはシートが貼られ、椅子が並ぶ。そして、その練習中にあの地震。下から突き上げるような体感した事の無い揺れ。真新しい体育館は上からボロボロと何か資材が落ち、照明はありえないぐらいに揺れ、
2024-03-11 06:36:26叫ぶ生徒、非常口を開けに行く先生。運良く?卒業式練習の為、全校生徒は1人1個自分の椅子を持って居ました。しばらくの間その椅子に頭を突っ込み耐える。何が何だか分からないけれど大変なことが起きているのは分かけどこの時は「この揺れは災害に繋がる」という考え方は私は持っていませんでした。
2024-03-11 06:42:18しばらく揺れに耐えたあと、先生の指示で非常口から校庭へ避難します。走っている真下にコンクリートに地割れがビッと入り、窓ガラスは見たこともないくらい揺れていた。校庭の真ん中に避難し、学年クラスごとに整列。既に学校には避難者が集ってきて居ました。ありえない数の鳥が空を飛んでいったのを
2024-03-11 06:51:22覚えています。この間もずっと揺れは続いて居ました。しばらく経つと防災無線から「3mの津波が予測」このとき私は3mの波の高さを理解していなかったので、何だ3mくらいかと思っていました。しかし、だんだん荒がる声「津波が水門を越えた、気仙川を越えた」無数に聴こえる車のクラクション
2024-03-11 06:59:55聞いたこともない何が起きてるかも分からないゴーという音をバキバキする音。このとき既に津波は到達していたのだと思います。私は馬鹿なので先生の指令を無視し、学校から市内を見渡せる場所へ走り、そこで全てを理解しました。しばらくたったあと、スイセン(学校のすぐ近くの酒蔵)まで来てる!と
2024-03-11 07:04:58声が上がり、あぁ自分も波に飲まれるのだと思いました。学校はかなりの高台にありましたが、それでも終わったと思った。そして異様に静かな時間もあった。校庭に戻り、しばらく待機。このとき雪が降ってきて、制服一張羅で避難した生徒達は寒さが堪えました。余震の続く中、先生が教室に荷物を取りに
2024-03-11 07:13:39行くと言い、クラスから生徒数人引き連れ揺れる校舎へ。教室は2階にあるため、目につく防寒着などをベランダから投げ下ろす。このおかげで防寒着は確保。時間はあまり覚えてないけど、薄暗くなった頃、多分17時~18時位にやっっっと体育館へ。既に暗い体育館は避難者でいっぱいに。真ん中に光。
2024-03-11 07:19:27ホワイトボードに懐中電灯。緊急本部?のようなスペースが既に出来て居ました。生徒達は体育館の渡り廊下近くのスペースへ。クラスごとに丸くなり、1枚の布をシェアして暖を取る。やはり避難者の中にも御家族はいるわけで、保護者が迎えに来たら学校側から引渡し。という流れになった。私はこのとき
2024-03-11 07:22:57諦めた。なぜなら自宅は山を越えないと行けない、山中にあるからだ。同じ地区の生徒たちと、私たちは迎えこないよねって話をしたのを覚えている。迎えにきて泣きながら抱擁する生徒たちを見送る私。その生徒たちが心底羨ましかった。家族が不安で仕方がなかった。しばらくたって、避難者も溢れつつあり
2024-03-11 07:26:19生徒たちは校舎の教室へ移動することになった。ここではクラスごとではなく、学年で男女に別れた。まず、机を下げスペース確保。カーテンをレールから外し暖を取る。不安で泣いている生徒もいた。科学の先生が灯篭と氷砂糖、コップ1杯の水を持ってきてくれた。みんなで氷砂糖を舐め水を分け合う。
2024-03-11 07:31:09この間もずっと揺れは続いている。余震とかのレベルではなく本当にずっと揺れていた。夜中、教室から木の隙間から遠くに赤い火が見えた。方向から考えるとおそらく気仙町の方角。その赤い火を、ぼーっとみたのを覚えている。怖くて教室から出ることが出来なかった。ただずっと揺れている窓を見ていた
2024-03-11 07:35:26教室に移動してからも、保護者が来れば葉引渡し。既に諦めていた私は、明日からどうやって過ごすかを考えていた。学校から逃げ出して歩いて家に帰ろうかとも考えた。朝になり、直ぐに外にでて、あの状況を目にした。また頭が理解出来ず、混乱した。あのデカい酒蔵の樽が目の前に転がっていた。高台なの
2024-03-11 07:42:13に、坂を上りかなり上にまで津波の後があった。本当にあと数m高かったら学校も飲まれて居たのかもと血の気が更に引いた。しばらくすると自衛隊のヘリが校庭に来た。しかしヘリを止めるにはある程度スペースが必要なようで、本当に30分近くヘリは上下を繰り返していた。私は友達と、今日はどうするか
2024-03-11 07:46:43決めようとしていた所に「家に帰れる」と連絡が入った。でも車で山を越えなきゃ保護者は来れないのになぜ?とおもったら、同じ地区の生徒の保護者が次いでに、まとめて私たちの保護者代わりとして引き取ってくれたのだった。その方たちはなんと半日かけて夜中も歩き、高台の学校まで来てくれたのだった
2024-03-11 07:51:15皆で準備を終え、出発。海とは反対に山を登る。見たこともない状況が広がる後ろを振り向きたく無かった。ずっと前を向いて歩いた。途中でヒッチハイクに成功し、小さな車にぎゅうぎゅうに荷物のように中学生10人近くが収まった。半日かけて、やっと町内に。そこで心臓がとまった。(止まりかけた)
2024-03-11 07:56:41海から離れ山中なのに、ガレキが到達していた。それは本当にありえないことで考えられないことだった。気仙川を逆流し、こんな山奥まで津波は来たのだ。血の気が引き、近所の生徒と走って先を急ごうとしたが、止められた。公民館に飯がある。絶対食っていけ。食える時に食うんだ、と。私は早く帰りたい
2024-03-11 08:00:21ので、本当に有難い事なのに有難みを軽視しクソ〜〜と思いながら、汁とおにぎりを噛まずに飲み込みきっちり完食し、友人と走った。なぜなら2人とも川の隣に家があるからだ。しばらくして、瓦礫、来てない、車、ある。バンッと声もかけずに玄関を開け、無事に家族と再会した。家族もどうやって私を迎え
2024-03-11 08:04:30に行くか考えていた所だった。話を聞けば、祖父や母は地震があった時は陸前高田市内で買い物をしていたらしい。長年の経験から直ぐに車で家に向かったあと直ぐに津波が来たそう。ちょうどこの日、病院にかかっていた祖父は3ヶ月分の薬を貰い、切らしていた灯油を買い、ガソリンも満タンにして帰ってき
2024-03-11 08:07:37た。さらにはラーメンを箱買いしていた。人生で初めて、祖父の「ストック癖」に感謝した。ここからは震災当時の「生活」に焦点をあてていきます。
2024-03-11 08:09:59平成の世には珍しく、私の実家は薪風呂だった。私は幼い頃から薪風呂が大好きだったが、震災当時、改めて好きになった。水は山からパイプを敷き、山の水を使用していた。ということは、震災当時私たちはお風呂に入れたのだ。新しいものは便利に違いないけど、古いものも良いものだと改めて思った。
2024-03-11 08:14:59他の人からはあまり理解されないだろうが、薪風呂は最強だ。家にはストック癖の祖父のおかげで、ゴミと紙一重の昔の産物が沢山ある。ドラム缶をくり抜き小屋に閉まっていた釜でご飯を炊いた。米農家なので余るほど米はある。しかしここで問題が起きた。この地域の米農家は、食べる料だけ精米し、あとは
2024-03-11 08:19:28「籾」のまま保管するのだ。米はあるが、精米が無いのだ。そこで我が家が引っ張り出してきたのが、自家発電のかなり昔の「精米機」だ。もう錆びつきボロボロだったが、変な音を出しながらも動いた。やるしかない。自分達の米を精米し、仲の良い友人たちにおすそ分けした。
2024-03-11 08:23:13そして何処からか噂を聞きつけた方たちが、籾を我が家に持ってきて「精米依頼」が殺到した。祖父は義理堅いガンコジジイなので、必死に毎日毎日、精米した。ガソリンがもったいないので一輪車(ネコ)で、配達した。もちろん商売ではなく情のみで動いていた。
2024-03-11 08:29:31