キュゥべえ(QB0)さんによる『輪るピングドラム』の考察
ところが、最終回のある場面から先では、そのピクトグラムが普通のキャラとして描かれている。見た人は気づいたと思うけれど、運命の乗換えが行われた後の陽毬と苹果の場面だね。どうして、そこからは他のキャラクターと変わらない普通の人間として描いたのか、その理由も色々考えられるんだけれど。
2011-12-29 00:09:39見方を変えれば、それはもう陽毬が「罪」を被る必要がなくなってしまったからといえるんじゃないかな。その結果、世間を避ける必要もなくなった。そのときになって、はじめて無関係な人間にも意味が与えられたことになる。ボクは、ピングドラムというのはそういう話だった気がするんだよ。
2011-12-29 00:14:17あの作品のわかり難いところは、度々「これは本当にあるものなのか、それとも何かの比喩なのかわからない」ところなんだけれど、子供ブロイラーと、このピクトグラムはすぐ近いものに思えるよ。自分にとって関係のない人間がピクトグラムであるように、誰からも必要とされない子供は透明になる。
2011-12-29 00:16:32サネトシ先生や晶馬の父親の剣山は、そういった誰からも必要とされない子供たちが生まれる社会の仕組みを憎悪した。だから、そのために何らかの手段で世界を壊してしまおうとしたんだけれど、それを桃果に邪魔されてしまった。その結果、事件は小規模なものになり、あの物語がはじまる。
2011-12-29 00:19:35いってしまえば、子供ブロイラーのような存在(それが現実に存在するかはともかくとして)はまだなくなっていないことになる。それが、主人公二人の「運命」に対する思いに現れているんじゃないかな。生まれつき運命に従わなければいけないという、束縛間のようなものがそこにはあるんだ。
2011-12-29 00:22:09そこで、その運命に関わるピングドラムとはなんだったのか、という話になるんだけれど、これは「運命の果実」そのものだと思えばいいんじゃないかな。最初にこの果実をもらったのは冠葉だけだったんだけれど、それは、彼が最も兄妹の中では愛している人間も、愛された人間もいたからだと思うよ。
2011-12-29 00:24:48それを冠葉は晶馬に与えることで、同じ運命、つまりは兄妹というものになった。そして、さらに晶馬が陽鞠にもそれを分け与えたことで、あの三人の兄妹が成立したといってもいい。そうして運命を分けるという行為が、「運命の果実を一緒に食べよう」という言葉だったんじゃないかな。
2011-12-29 00:26:59帰宅ったー。ら、私の大好きな@QB0さんが私の大好きなピングドラムの解説してて胸が熱くならざるを得ない。え、すごく面白いんですけどこの考察。キュゥべえさんマジ頭いい
2011-12-29 00:29:00それと、もう一つの呪文が「愛してる」だね。愛なんてものについて話すのは得意じゃないんだけれど「運命の果実を一緒に食べよう。」が一緒に生きていくための呪文なら、「愛している」というのは相手を受け入れるための呪文だったんじゃないかな。その結果、晶馬は苹果の罰を肩代わりすることができた
2011-12-29 00:29:43それが最後の話になるんだけれど、「林檎は宇宙そのものなんだよ」という言葉だね。ここでいう宇宙は、例えば世界と見ることもできるし、あるいは人間一人ひとりの世界といえるかも知れない。結果的に、運命の選択をした冠葉と晶馬には「ご褒美」としての、世界が与えられたことになる。
2011-12-29 00:32:27それが、二人の最愛が幸せの暮らすことのできる世界だったと考えれば、林檎はご褒美であり、そこからがはじまりなんだという言葉も間違ってはいないね。大体、ボクがあの作品を見て抱いた感想はそんな感じなんだけれど。
2011-12-29 00:34:21最後にいくつか気になる部分をいえば、世界を変えたという結末(別の世界への移動かも知れないけれど)は、本当に陽鞠たちにとっては幸せなものだったのかということだね。自分の好きな人たちのことすらも忘れてしまうことは、それもまた人間にとっては辛いことだと思うし。
2011-12-29 00:37:08けれど、「誰かに愛されたことのある子供は幸せになれる」というのは、ボクも嫌いじゃないよ。そういう希望の力があってはじめてボクらも、この星の少女たちと契約ができるわけだし……さて、長くなってしまったね。付き合ってくれてありがとう、感謝するよ。
2011-12-29 00:39:37