田代ヤネス和温「チェルノブイリの雲の下で」読書録
チ雲)雑感 あと、ここにグローバル化の陥穽もある。被災当事国にとっては、輸入食材は救いとなるが、被災国からの輸入に依存している国は打撃を受ける。グローバル化推進するならなおのこと脱原発を目指さないと遠隔国でも悲劇が起きる。また現状では過剰な輸入依存は致命的ともなる。
2012-01-03 23:03:06チ雲)第三世界への汚染食材の流通は把握されていない。測定体制の不備、ECの規制は輸入のみ、新植民地主義のもとで経済的な支配も受けている。「チェルノブイリはいたるところにある」(p216) というスローガン。汚染乳製品は政府の競売経由で第三世界へ。そして多くが子供たちへ。
2012-01-03 23:17:49チ雲)(ハンガリーのある物理学者)「チェルノブイリを通じて原子力は東ヨーロッパの人々にとってその"純潔"を失った。これまで原子力はわれわれにとって近代的で、大気や河川の汚染を減らし、森を救う綺麗なエネルギー源としての希望であった。…
2012-01-04 00:33:36チ雲)(西ドイツの原子炉メーカーKWUのヴァルテルト氏)「原子力技術は本来政治的な技術であるから、望むと望まざるとにかかわらず、政治的な条件をつくるのもわれわれの義務である。」1986年6月ヨーロッパ原子力会議 ジュネーブ。
2012-01-04 00:37:15チ雲)「私は原発技術というよりは、この技術を推進する科学者や政治家に恐怖感を覚える。私やあなた、一人ひとりがガンになったり、子どもの健康が害されたりすることが、かれらにとっては単に数字にしか過ぎない。」p221
2012-01-04 00:40:07チ雲)(プリピャチ市)「事故の日の正午には原発から2キロ離れた団地に住む原発関係者の1000家族が退避している。『プラウダ』誌は原発従業員のうち緊急時に持ち場を離れた者がいると非難した」p223
2012-01-04 00:43:54チ雲)(プリピャチ市)「『プラウダ』誌は住民の避難に活躍した18人の党幹部のうち16人が病院に入院したと伝えている。(略)戸外で退避を組織した党幹部たちは特にたくさんの放射線を浴びたに違いない。26日のうちに独断で逃げ出した人々は、27日のに急速に上昇した放射線を免れた」p224
2012-01-04 00:47:49チ雲)「犯罪者として扱われることを恐れた原発責任者が、はじめこの事故を火災と報告したのだった。」「運転されている原発とともに生きなければならない私たちにとって、原発の危険が知られれば知られるほど、逆に事故隠しの傾向が強まるという現実がある。」p225
2012-01-04 00:53:18チ雲)「日常を変えず、市民のいこいや祭りを妨害しないという態度は、東西の権力に共通している。」「ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長がウクライナ共産党のシェルビツキー第一書記に対して「パニックを誘導する可能性のある対策は一切とらないよう指示した」」p226-227
2012-01-04 00:57:50チ雲)ウクライナのロマネンコ保健相は放射線防護のためにヨウ素剤を飲むのは危険だと言明、ウクライナではソ連共産党の大物が水道の水を飲んでみせたという。
2012-01-04 01:02:47チ雲)ソ連の批判的国民は「タス通信」をまったく信用しておらず、「根拠のない不信感はもつべきではない」と論調されれば「根拠なくても不信感をもつべきだ」と解釈していた、と1986年シュピーゲル誌。測定値もソ連国民にはほとんど知らされず、海外の記者にのみ発表され、しかも正しくなかった。
2012-01-04 01:04:26チ雲)チェルノブイリ周辺では気象操作が試みられ、キエフ市の水源を守るために雨を遠ざけようと努力していたが実らず。政府紙「イズベスチヤ」はこの雨を「放射能を洗い流す恵みの雨」と表現して民衆を安心させようとした。
2012-01-04 01:09:36チ雲)事故発生直後から西側の諜報網を通じて得られた情報は、IAEAのブリックス事務局長、ローゼン原子力安全部長がモスクワに行った後はまったく発表されなくなった。
2012-01-04 01:12:18チ雲)事故を起こした4号炉の地下にはトンネルが掘られ、コンクリートで第二の土台が作られた。チャイナシンドロームの懸念があったため。また3号炉と4号炉は制御装置が連結されていて、3号炉も液化窒素注入で冷やしていた。これらの作業を行った英雄的労働作業によってさらなる被害拡大は免れた。
2012-01-04 01:18:21チ雲)初期の作業動員はキリスト者を中心とした、当局から信頼されていない土木部隊や囚人部隊だったと国際人権協会は伝えている。チェルノブイリ出動後行方不明となったキリスト者兵士の消息は家族にも知らされていない。
2012-01-04 01:21:37チ雲)バルト三国(リトアニア、ラトビア、エストニア)から数千人が徴集されたがそれに対する激しい抗議デモがあったらしい。人々は現地に放射線防護服すらまともにないことを知っていた。一日16時間労働、汚染されていない水はないため身体も洗えない。寝起きは屋外テント。これが半年。
2012-01-04 01:25:07チ雲)「英雄を作り、連帯感を作り、気晴らしの機会の少ないソ連市民にテレビのショウで憩いの時間を作り、放射線症の実態や、事故現地で働く苦闘を忘れさせた。」p236
2012-01-04 01:35:56チ雲)多くの人々が汚染の実態を知りつつフォールアウトの下ピクニックやデモに出かけた。それを著者は「汚染されていない原世界に戻りたいという欲求」の表れであるとし、「呪術のようにさえ見える」と表現している。自己暗示によって更に自分たちを危険にさらすというパラドックス。
2012-01-04 01:46:51チ雲)「このチェルノブイリの日々、私とエルケは幾度もヒロシマを想い、ヒロシマについて語り合った。ヒロシマ、それは生命の深部への切り込みであり、仮借のない攻撃であった。ヒロシマに始まった時代の意味、死者を含む被曝者たちからのメッセージは…
2012-01-04 01:50:47チ雲)…今にして思えばほんの少数の人たちにしか理解されていなかったようである。たとえば身体の丈夫な「普通の」人々は「被曝者」を理解できなかっただけでなく、後者を差別してきた」p241-242
2012-01-04 01:51:58チ雲)「確実に訪れる次の破局を食い止めるには、ヒロシマに象徴される時代の意味、すでにカタストロフィーの中にいるという時代の精神を理解し、身につけることしかない。」p242
2012-01-04 01:53:38チ雲)「放射線防護服が必要とされた環境の中で、原発推進に責任のある人びとは、妊婦や子どもたちの外出さえ止めようとしなかった。彼らには幼い生命や新しい生命を守るよりも、放射能まみれの「日常」を維持することのほうが価値が高かったのである。」p243
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