”危険な”漫画『鈴木先生』を読み終えて

漫画『鈴木先生』を読む上での辛さ、裏テーマ。深読みの危険性。
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k @kawashim

鈴木先生読みおえた。この漫画は辛い辛いと思いながら読んでいて、最後の方は軽く読むにとどめてしまった。この辛さというのは、読者が普段ものを観る際の視野を拡張することを、この作品は強要するからなんですね。無論、その拡張された視野で観るに耐えられるようにディテールも凝っている。

2011-12-30 13:52:50
k @kawashim

鈴木先生は、漫画というメディアにおいて非常に前衛的なことをしている。漫画表現の常識を破壊する因子を孕んでいる。こういう作品を長期間連載し、最後まで納得のいく形で続けさせた、雑誌アクションとその編集者は偉大。

2011-12-30 13:58:54
k @kawashim

漫画読みであればあるほど、この漫画読むの辛いと思う。めんどくさいと放り投げる人も多いんじゃないかな。むしろ、普段から活字中心の人の方が辛抱強く読めるはず。

2011-12-30 14:00:56
k @kawashim

いや、そうでもないかな。活字は作中の物事が並列的に進行していても自分の頭の中で処理できるけど、漫画の場合その処理方法が作者の意図に従属しやすい。だからこそ簡便な表現が好まれるのだけど、『鈴木先生』はそういう簡便さを排しているから異質、という方がしっくりくる。

2011-12-30 14:04:24
k @kawashim

鈴木先生を読むのが辛い理由のもう一つの側面は、漫画というメディアの作者と読者がこれまで繰り返してきた「少年少女のキャラ消費」を作品全体で抗議し、暴力だと否定していること。

2011-12-30 14:13:11
k @kawashim

これは読まないとわからないとわからないと思うけど、鈴木先生は少年少女に「物事を一側面からみることの危険性」(誤解を恐れずにまとめて書くと)を繰り返し説く。しかし、その一方で自分がその少年少女を神聖視し、「色眼鏡でみることの」矛盾に一貫して苦しむ(小川さん=神の娘など)。

2011-12-30 14:16:41
k @kawashim

少年少女が短期間で驚くほど成長して軽々と大人の凝り固まった価値観を飛び越える。その躍動感こそがこの作品の見所ではあるのだけど、もう一歩進むと、これは今までの学園漫画にありがちな少年少女のキャラ消費を漫画を通してしてきた漫画の作者-読者の共犯関係をメタに否定しているんですね。

2011-12-30 14:21:38
k @kawashim

鈴木先生は旧来の漫画家であり、鈴木先生が夜みて罪悪感を抱く小川さんの夢が今までの漫画、教え子の少年少女は「思いがけず独り立ちしてしまった漫画主人公たち」であり。読者はその周辺に常に居心地悪く佇むことになる。なぜなら、このメタな劇の中には「消費者」の役割は存在しないから。

2011-12-30 14:25:56
k @kawashim

学園祭の演劇が最後のエピソードに来たのは非常に示唆的だろう。成長して独り立ちして「脱キャラ化」した少年少女が劇をする。そこに旧来の「消費者」は観客席にも入れない。校内に侵入したあのニートは行き場を損なわれた「消費者」なんですね。「何もない静かなところで休め」と言われる存在。

2011-12-30 14:32:17
k @kawashim

無論、作者がそういう安易な「消費者」を否定しているという意図は明確にはないと思う。ただ、この『鈴木先生』という広い意味で「言論」をテーマにした作品を本気でディテールを凝らして作っていった"結果"、「消費者」を排斥してしまう。というのは逆にその裏テーマの訴求力を強めていると思う。

2011-12-30 14:36:36
k @kawashim

だから、漫画読みの人たちがこの『鈴木先生』という作品を深読みしていくのは危険だと思う。個人的に漫画はどういう読みをしようが自由ではあると思うし、それが漫画の良さだと思う。しかし、この作品は漫画を消費物と安易に捉えていると「飼い犬に手を噛まれる」類の脅威がある。

2011-12-30 14:40:12