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以前、これをクリーニング屋さんに出したとき、お店の方が「ワンピース」と伝票に記入。なるほどワンピースには違いないと、密かに微笑んだものです。
2024-04-04 16:12:19検事(赤)の刺繍部分の丈が、弁護士(白)より短く見えますが、この法服自体の丈が短めで、身長の低い検事さんが着用されたものと思われます。
2024-04-04 19:33:09@EeoduLzbYVjTprk 細部がはっきり見える写真をありがとうございます。 私は戦前法服を再現したいと考えており、実物とレプリカを見に行ったのですが、両サイドにあるタック部分(?)の詳細が把握できていない状況です。 もし可能であれば、サイド部分の写真も公開いただけないでしょうか?
2024-04-05 08:52:04@actiolic 両脇に、プリーツがあります。平安時代の武官の「半臂(はんぴ)」のようです。着用時により明らかになりますので、後日、有職講座受講生の方のご協力を得て撮影してみますね。
2024-04-05 16:40:19「虎に翼」。 法服の脇には「半臂(はんぴ)」のような襞(ひだ)があります。寅子たちのように、法服を作ってみたいという方から「脇の襞を見たい」というご希望がありましたので、スタッフに着てもらいました。 pic.twitter.com/Xaic2mZJ2E
2024-04-15 08:19:23※以下は番組とは特に関係のない法務省の過去の投稿です。
【 #赤れんが棟クイズ Q】こちらは、明治時代から昭和初期まで使用されていた法服(裁判官・弁護人・検察官が法廷で着る服)ですが、どの色がどの職業でしょうか!?正解はのちほど~ pic.twitter.com/AGtumtBtS9
2015-10-22 16:46:05【 #赤れんが棟クイズ A】正解は、 ①弁護人②検察官③裁判官です!民間人である弁護人には,桐の紋がないですね。ちなみに、法服は支給品ではなかったようで、奥様やお母様が徹夜で刺繍をしたとのお話も残っております。。。 pic.twitter.com/f6eXE15sKD
2015-10-22 18:34:56明治大学憲法教員・松本重敏について
法学史。ギター。ドラム入門中。宅録。モモーイ。vulfpeck。SRV。76。研究者未満。
なお、松本重敏の憲法に関する著作は憲法研究者でも読む人は全くおらず(自分も読む必要はほぼないと思う)、また松本という人物について言及する人はさらに一層少ないので、ほぼ自分の独自研究というか妄言でしかない。
2024-04-13 17:29:07なお、松本は「憲法学者」としてはその著作に価値はあまりないが(老婆心ながら読むだけ徒労だと思う、ただ松本を読んだ後に八束や筧や上杉を読むと格の違いというものを感じる)、法学者との思想の関係を平板に見てはいけないことを考えるうえで一つの素材になると思う。
2024-04-13 17:30:39さて、この回で映った憲法の教員だが、舞台背景が昭和6年と女性の登録を可能にするための弁護士法改正がホットだったという背景を考えれば、この教員は初代女子部部長で、かつ弁護士法改正調査委員として女性弁護士(そして女性法曹)を推進していた松本重敏ということになろう。
2024-04-13 17:31:06松本の経歴から述べると、明治4年生まれ、明治31年に明治大を卒業し、検事に任官、韓国統監府理事官等を経て、大正2年に弁護士登録。その後、弁護士業務の傍ら大正6年に明大の講師、11年に教授と進んだ。同年、改正された大学令に基づく明治大学初の学位授与者となる。
2024-04-13 17:31:22松本は、大正14年法学部教授会で法学部長に推薦されるも、明大理事会がこれを拒絶。これに対し、横田秀雄をはじめとした法学部主要教員の多くは辞表を提出した(なお補足すると、当時の明大の教員はほぼ全員裁判官や弁護士との兼任教員なので、辞めても生活には影響はない。むしろほとんど赤字覚悟)
2024-04-13 17:32:19その後、松本は弁護士業務に力を入れ、その中で穂積重遠や婦人参政同盟などと出会うことになる。この時の穂積からの感化が、もとより強固な保守思想を有する松本を女性の社会参画の推進に関わらせたといわれている。
2024-04-13 17:33:26松本は、女子部が創設される直前の昭和3年に大学に復帰、初代女子部部長となった。その後、昭和6年11月頃、今度は横田秀雄らとの関係が悪化し、再び大学を離れ、その後はもっぱら弁護士として生活するも高齢化と持病が重くなり、1937年頃には引退生活に入る。昭和16年12月死去。
2024-04-13 17:34:35学生からの松本の評価については 昭和7年卒の唐崎ヒデは「小柄の体に溢れるような精悍さをにじませた人だったが、生徒にはやさしい好々爺適菜存在でもあった。いつも握りぶとのステッキをもち、鼻眼鏡をかけていた。
2024-04-13 17:35:09当時口さがない駿台雀が「明治大学に騒動が起こると、鼻めがねとフロックコートを白足袋が走り回る」とさえずったもので、稚気愛すべきものを感じさせる先生だった」(明治大学短期大学50年史、169頁)
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