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同学年で在学中から教員に抜擢された高窪静江は、松本を情の松本部長と呼び「不可解な法理学と憲法には頭を悩まされたものであったが逗子のご住居によく学生全部を招かれ、私などは碁のお相手をおおせつかったもので、「僕の碁は壮士碁だ」と自称されるだけあって、
2024-04-13 17:35:41相当荒っぽい太刀筋だった。物故される少し前立石教授とよくお見舞いに伺ったが、涙を流して喜ばれるものであった。」と回顧する(前掲同書)。
2024-04-13 17:35:50松本は、女性の社会進出については、富岡瑠璃子『到来社会と婦人の覚醒』(丁酉出版社、昭和6年)には、序文を寄せ、自己の立場を明らかにしている。なお、同書第7章は「法律上に於ける男女」であり、本作の元ネタになる問題も多く登載されている。
2024-04-13 17:36:58さて、松本の本業はやはり公法学者であるが、彼を公法学者として評価する者が皆無であるのは、やはりその立場が、「不可解な法理学と憲法」だからだろう。すなわち、あらゆる点に日本という国の特殊性を強く強調する立場であり、法理論的には無理のある見解が多々述べていた。
2024-04-13 17:38:00そして、そのような無理のある見解の代表が松本が法学博士号を受けた『忠君論』であった。同論文については上杉愼吉も強く批判するものであったが、
2024-04-13 17:39:02「最初帝大に提出したのであったが、美濃部閥によって受理されず」という事情を自著(『天皇機関説亡国論』(世界公論社、昭和10年)の序文で出版社の人間に書くことを許すなど、ある種の対立意識を強く持ってしまう人間であった。
2024-04-13 17:39:38なお、松本の立場を象徴するエピソードとしては、長く黒龍会に参加し、国体明徴事件の際には、美濃部を誹謗中傷する怪文書を撒いたことを挙げるべきだろう。
2024-04-13 17:41:00話は変わるが、明治大学は、女子部設置と同じ頃に明治大学刑事博物館を設置したように、明治大は刑罰の人権制約性について問題意識を持っていたが、松本も同様であり、帝人事件では弁護団の主力の一人として活動的に弁護活動を行った。
2024-04-13 17:44:36重遠のような偉大な法学者は思想と活動、法学の関係がある程度明確だし、それゆえに考察しやすいが、多くの人間は松本重敏のように混迷の中に生きている。
2024-04-13 17:53:14特定の時点で議論をリードする偉大な法学者を中心に時代を見ると全体的な評価を誤り、混迷する人間としての法学者や法曹の考えを一つ一つ解きほぐして、全体を改めて考察するのも今の法学史には必要であろうと思う。
2024-04-13 17:55:56