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天台宗と信玄…個人的な考察

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日光81 @nikko81_fsi

その威徳院西坊は、弘治年間に信玄が祈祷返礼を出しており(戦武637)「任恒例御札到来」とあり長年の関係を想像させる。信玄と威徳院、信玄と正覚院、そして威徳院と正覚院。その相互の関係があったからこそ、ひとまず威徳院に身を寄せた豪盛が、信玄の元に逃れる選択をしたのだろうか、などと想像。

2024-04-30 13:49:02
日光81 @nikko81_fsi

威徳院は明智光秀とも関わりが深く、本能寺の変直前の「愛宕百韻」を詠んだ場としてもでも知られている。この文脈で、成安造形大学附属近江学研究所紀要第11号「比叡山焼き討ちと天正の復興―明智光秀の果たした役割―」を読むと興味深い。omigaku.org/databese/

2024-04-30 13:52:41
日光81 @nikko81_fsi

ここでは、生き残った叡山僧たちがなぜ生き残れたかを検討していて、延暦寺にあって仏教を真摯に追求する一部の僧が、叡山焼討ちを事前に察知できた可能性について言及している。主に全宗や詮舜について検討、そのなかで明智光秀が果たした役割について言及している。

2024-04-30 13:54:25
日光81 @nikko81_fsi

明智光秀と威徳院を媒介にしてつながりうる正覚院も、何らかの形で焼討を事前に知らされ、逃れることができた可能性は想定してもよさそう?また、元亀3年10月時点まで、表面的には甲尾同盟は活きており、明智光秀は信忠・松姫の婚儀に関わっていたとされている。

2024-04-30 13:59:04
日光81 @nikko81_fsi

それ以外でどれだけ対武田外交に光秀が関わっていたかは判らないが…光秀が避難を促した叡山僧の中に、正覚院豪盛も含まれていたのかもしれないな…と。

2024-04-30 14:00:18