- BlueMAX_VJ
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【『ウルトラマン』制作の原動力】 読んでいただいている人の中で、子供の頃ウルトラマンに、つまりは円谷プロにファンレターを送った人はいますかね。 そのファンレターが当時どうなっていたかの話です。 今回は帰省の際に母から聞いた話。 ↓ pic.twitter.com/7H8tkzQzc0 x.com/tsuburayaprod/…
2024-05-05 10:15:43◇━━━━━━━━━━━━◇ ウルトラマンへの手紙 ◇━━━━━━━━━━━━◇ "ウルトラマンの日"に あなたへのお返事が届く❗ 大好評のお手紙募集企画が 本日より受付スタート📬 #ウルトラマン やウルトラヒーローへの想いを ぜひ手紙で伝えてみてください✨ m-78.jp/news/post-7067 pic.twitter.com/19c3GrslgI
2024-04-25 12:01:34母は1966年の『ウルトラマン』から1968年の『戦え!マイティジャック』まで、円谷プロの美術アルバイトとして、砧にある東京美術センター(通常:美セン)で働いていた。 美センは円谷作品の特撮の撮影が行われていて、後に東宝ビルトという名前に変わった撮影所。 ↓
2024-05-05 10:15:43祖師ヶ谷大蔵の円谷プロからは歩いて10分くらいのところにあり、母はデザイン画やセットの設計図を手にこの間をずっと往復していたとの事。 さて、その美センだが、成城学園前駅からの途中にある東宝の撮影所に比べると、規模も設備も比べものにならないくらい小さくボロかったらしい。 ↓
2024-05-05 10:15:44コンクリ造りの見上げるほどのスタジオがいくつもある東宝に比べると、美センはトタンで覆われた撮影スタジオが数棟あるだけ…後は事務棟、そして父が作業していた美術棟があったくらい。 昼食は東宝撮影所の食堂によく食べに行っていたそうだが、その度に設備の違いにため息していたとの事。 ↓
2024-05-05 10:15:44まだまだ映画は花形の時代。テレビの仕事は「電気紙芝居」と見下されてもいた。 ボロい美センに戻ってモチベーションが下がっていると、目に入ってくるのが、事務棟の廊下だった。 ↓
2024-05-05 10:15:45その廊下の壁面一杯には、全国から届いた子供たちからのファンレターが貼り付けてあったのだ。 50年以上経っても、母はその光景を鮮明に覚えているとの事。 つたない字で…でも一生懸命書かれた子供たちからのウルトラマンへの応援メッセージが隙間なく大量に貼り付けられている。 ↓
2024-05-05 10:15:45それを見ると、不思議とさっきまでの気持ちは晴れ「よし、頑張ろ!」という気持ちになったという。 一アルバイトだった母ですらそうだったので、社員やメインスタッフたちの心持はそれ以上だったのではないですかね。 ↓
2024-05-05 10:15:45直接、子供たちの熱い気持ちに触れながら、『ウルトラマン』は作られていたという話でした。 子供の日として、またあまり話し残されていなかったので母の言葉をその記録として。 皆さんのファンレターはちゃんとスタッフの心に響いていましたよ。 (了)
2024-05-05 10:15:46@fukafuka_9 送りました。 ウルトラセブンが始まるころにお知らせの葉書が届いたと記憶しています。 新番組が始まる時にもあったかなあ? 円谷英二さんのサインもあったようななかったような。 いかんせん古い記憶なもので。
2024-05-05 13:39:49@fukafuka_9 @sankakumarkhero 円谷プロに入りたくて履歴書送ったことあります ウルトラマン愛を語り過ぎて失敗したかな?
2024-05-05 14:46:27@shinichiwakasa うわわ、若狭先生からの直接のコメントがっ!!!! ありがとうございます。 また貴重な経験談もありがとうございます。 母はアルバイトで直接管理していたわけではないので、返信とかは解らないみたいです。 メールは便利ですが、やはり手書きの手紙は伝わりますよね。無くなって欲しくない文化です。
2024-05-05 17:30:57@fukafuka_9 こちらこそ、返信ありがとうございます。 円谷プロから、お手紙が届いたのは子どもながらにうれしかったですよ。
2024-05-05 17:40:03