大人になることの責任と自己責任の差異について

日本人は何故、デモをしないのか、またしても規模が小さいのかについて、様々な論考がされています。世界ではオキュパイN.Yなどの格差社会に対する異議申し立ての運動が各国、各地で見られました。日本でもその流れがみられたものの、規模的には小さいものがあります。 私は平川克美さんの『小商いのすすめ』を読んでいて、その原因は日本人が自己責任というワードを身体化させ、それが人間としての責任と、グローバリズムにおける自己責任性を混同しているのではないかと思い、今回このような考えを行ってみました。 よろしければご賞味ください。
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neisanxneisan @neisanxneisan

『小商いのすすめ』から考えた、人としての責任と自己責任の違いについて。この両者について、我々は混同しているのかもしれない。オキュパイトーキョーなどでの日本人の反応の悪さが自己責任という概念と結び付けられて抵抗力が妨げられているという考えもあるように、日本ではこの両者が同一的だ。

2012-01-24 16:32:03
neisanxneisan @neisanxneisan

しかしながら両者における違いに感覚的に差異を抱いている人は多いんじゃないか。少なくとも自分にはその両者が違うように映る。この両者の性質を考えると、「責任」の使用価値と交換価値に分けることができるんじゃないかと思う。つまり自己責任的概念は責任の交換価値的側面が強いということ。

2012-01-24 16:35:23
neisanxneisan @neisanxneisan

どういうことか。例えば人間としての責任、自らの出自や身体的、精神的性質をこの身をもって受け入れること。これは有責性のないはずの自分を始原の有責性をもったものとして受け入れることで他人のもの、他人の責任と交換することはできず、甚だその過去から自分というものを受け継がなければいけない

2012-01-24 16:40:45
neisanxneisan @neisanxneisan

そうした自らの偶然を必然として受け入れ、大人になるということではないか。方や自己責任という概念はどういう性質を持つか。これはグローバリズムと関連性のある言葉で、いってみれば自己責任という「株」がなければ逆に新自由主義的経営は成り立つことができない。

2012-01-24 16:44:05
neisanxneisan @neisanxneisan

そして厄介なのは自己責任という「株」はもたらされたものではなく、人によって変化する可能性の高いブラックボックスであって、その株を買った人にはその時点でどうなるかはわからない。また、優勝劣敗、弱肉強食で勝負が決まるとも限らない。言ってみれば、結果がその株、その人の価値を決めてしまう

2012-01-24 16:48:21
neisanxneisan @neisanxneisan

それは、失敗株に対して株を売り捌いたグローバリズムは何ら責任を持たないということと、その失敗株に対して声を失わせるということである。また声を失ったものたちはフィールドアウトさせられ、新しく勧誘された者たちと交換させられる。これが自己責任という概念の交換価値的側面です。

2012-01-24 16:57:26
neisanxneisan @neisanxneisan

つまり、「誰でもいい責任」を売買できるということが自己責任の責任性なんじゃないでしょうか。一方で自らの出自、偶然性を、始原の有責性として受け入れること、これは自分にしか舞い降りてこないものです。こういたことから、両者の責任には違った重さが存在していると俺は思うのですわ。

2012-01-24 17:00:48
neisanxneisan @neisanxneisan

だからこそ自己責任に取り憑かれるのは甚だ馬鹿馬鹿しいことで、そんな重さもない責任性にあたまを悩ますんじゃないよ!とおもうのです。こんな初めから失敗株が存在するものを売り出したヤツが悪いと、言った方がよく、これは俺の責任じゃねえよ、というのは全然責任回避ではないと思うんです。

2012-01-24 17:03:57
neisanxneisan @neisanxneisan

ということを夜中寝れなかったのでまたポツポツと考えていましたが、どうでしょうか( ´ ▽ ` )ノ

2012-01-24 17:04:48