佐藤正美Tweet_20120201_15

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佐藤正美 @satou_masami

思うに、コッド関係モデルの登場以来、コッド正規形をデータ設計のみに使うことを止めさせようとした SE は存しなかったに違いない。かのモデルは、私の目には、「抽象データ型モデル」であって、意味論的に拡大すれば分析法としても使えるし、OOP と家族的類似性の強いモデルである。

2012-02-01 00:25:55
佐藤正美 @satou_masami

事業の中の要のモノを描く事に夢中になっている SE たちの姿を一歩下がって眺めてごらんなさい。そしてまた、ユーザとの会議で自信のない(不安な)顔をしている SE たちの姿を一歩下がって眺めてごらんなさい。「概念図」というものの正体を、きっと、すっかりわかることができるでしょう。

2012-02-01 00:26:56
佐藤正美 @satou_masami

モデルの形式を作る確かな前提を常に定立しようと思うなら、また決して迷うことなしに形式を常に正しいものにしようと思うなら、先ず、ユーザ言語を観よ。現実的事態は絵本のようなものである。ページをパラパラめくってザッと絵を眺める人たちは多いが、文を一つ一つ読む人はほとんどいない。

2012-02-02 15:12:02
佐藤正美 @satou_masami

「形式(形式的構造)」というものは、極めて相対的な度合いにおいて論理化されてゆくので徐々にできあがるものであって、簡単にできあがるものではない。しかし、ひとたび できあがると、「論理」の中で揺らがない。包括的概念であるがゆえに揺らがないのとは訳がちがう。

2012-02-02 15:13:09
佐藤正美 @satou_masami

私の眺めるとおりに「現実」はその相貌を見せる。私は「現実」をただ様々に「解釈」しただけだ。「現実」は、覗き込んだ私の姿を映す鏡のようなものだ。私が与えた「解釈」だけを「現実」は返してくる。私の「物の見かた」を判断するならそれでいい。だが、私の「見かた」とは一種の我執にすぎない。

2012-02-03 16:36:17
佐藤正美 @satou_masami

でっちあげられた「概念」は、「事実」の見落としより始末が悪い。

2012-02-03 16:37:01
佐藤正美 @satou_masami

学問の理論を探究する人を私は尊敬する。事業において成功をおさめた人に私は敬意を払う。だが、学問も事業も選ばずに、それらのあいだに立って、学問的理論を実務的技術に翻訳する人を私は愛する。

2012-02-04 16:21:39
佐藤正美 @satou_masami

私はユーザの事業をそのあるがままに企業努力の自然な発展として見なしており、その企業努力が或るマーケット条件のもとで鍛えられ、他のいっそう有利な条件に移る一つの形態(形勢)と見なしている。SE が私概念で象嵌できるようなヤワ(軟脆)な形態ではない。

2012-02-05 00:15:23
佐藤正美 @satou_masami

論理規則が無ければ、我々は無矛盾に少しも気づかないに違いない。こういう想像は愚問にすぎないが、私の思考が鈍っていないことを確認するには大事な問いだ。論理規則は我々の脳髄の中に新しい才識を創り出さないが、我々がすでに持っている才識の正確な使いかたを可能にしてくれる。

2012-02-06 01:53:50
佐藤正美 @satou_masami

数学が私の思考に及ぼした恩沢を、もし一つ述べるならば、それは私に「形式(無矛盾性、健全性)」(あるいは、「真」)を強く意識させてくれた事にある。いわゆる「数学基礎論」──それは学ぶには実に困難でありながら、しかも使うには単純な技術の一つであるように私には思われる。

2012-02-06 01:54:17
佐藤正美 @satou_masami

経験的な知恵と分析的な思考とは かならずしも併存するものでないから、富んで貧しい人も居(お)れば、貧しくて富んでいる人も居る。しかし、年若い人から「論理」を聞いたのでは、「論理」も人々は信じたがらないが、個人的な経験則であっても、年配の人から聴けば信じたがるようだ。

2012-02-06 01:55:08
佐藤正美 @satou_masami

論理規則や「真」が何になるか? そんなものは事業の中で儲けの代わりにもならない。──私にそう言った人がいた。しかし、それらは私の仕事では資本(元本)なのである。

2012-02-07 03:34:16
佐藤正美 @satou_masami

「論理」を使うという事は、自分の認識力を遙かに超えた現象を常に そのあるがままに形式化する企てである。エンジニアにとって「論理」は、「現実」を持ちあげる梃子の支点である。

2012-02-07 03:35:18
佐藤正美 @satou_masami

経験則が私の判断のうえで大きな役割を演じていることを私は認める。しかし、もう一つ新たな経験をした時に、その則が一向に変わらないと断言できない。否、変わるのが当然(あたりまえ)ではないか。私の変じる経験則を以て「現実」を見通す自惚れを私は聊かも持っていない。

2012-02-08 00:17:09
佐藤正美 @satou_masami

「論理」を習得するまでに幾年も費やし、いざ使う段になると、本人も社会生活に慣れきって経験則が頭を擡げてくる。日常生活ならそれでいい。しかし、アルゴリズムを構成する職ではそうはいかない。だが、自分の経験した事例は完全に掌握していると思い込んでいる SE が山ほどいる。

2012-02-08 00:17:34
佐藤正美 @satou_masami

新しい事態は SE に新しい不安を与える。この不安を正当と認めることが大事である。あらかじめのパターンを適用して平然としていれば、正当な不安も生まれないだろう。そして、正当な不安が存しなければ、その原因となった対象を凝視する気も起こらないし、いっぱし批評して いい気になるだろう。

2012-02-09 00:24:17
佐藤正美 @satou_masami

不安に陥っている人は、隣人も不安に陥っていると知ると、大いに胸を撫でおろす。事例発表の会場に集まる人たちの顔顔顔を一歩下がって眺めてごらんなさい。「バスに乗りおくれるな」という顔が並んでいる。自分がやりたいと思っていたことを先に実現されて くやしがっている顔を見るのは稀である。

2012-02-10 02:03:11
佐藤正美 @satou_masami

「真」という ことば は約言である。「真」という述語は二つの非常にちがった作用を内包している。一つは構造の導出に向かうもの、もう一つは現実的事態との一致に向かうものである。「形式」の中に「真」は見いだされる(タルスキー氏を読まれたい)。

2012-02-11 01:54:45
佐藤正美 @satou_masami

SE の俗物とはモデル論を知らないという事ではない。ユーザ、プログラマはモデル論を知らないが、しかし地の塩である。通説の前提を疑わない人、私概念で図法を描く人、分析において「論理」を認めぬ人、これらを俗物と云う。なぜなら、論理的技術つまり「真」に対する意識を喪っているからである。

2012-02-11 01:58:31
佐藤正美 @satou_masami

或るコンサルタントが或るエンジニアについて述べた意見──変人でしたね。もし、あの人になにかマシな性質があったとすれば、「正しさ(真)」に こだわったことでしょう。

2012-02-12 01:23:20
佐藤正美 @satou_masami

「形式」は「意味」で、「意味」は「形式」である。これがモデルを構成するうえでエンジニアの知り得るすべてであり、またエンジニアの知らねばならぬすべてである。

2012-02-12 01:23:46
佐藤正美 @satou_masami

経営の観点に立って「事業の概念図」を描く、私の真似をできるほど優秀なエンジニアがいたら言ってみたまえと、或るコンサルタントが或るエンジニアに向かって自慢をした。するとエンジニアは応えた──あなたの真似をしようとするような惚けたエンジニアがいたら言ってもらいたい。

2012-02-12 01:45:04
佐藤正美 @satou_masami

モデル──それは模型である。つまり、一面において現実の写像であり、縮図である。それは「論理」であり、「形式」であり、一種のドキュメンタリーであり、鋭い事業批評である。

2012-02-13 06:20:31
佐藤正美 @satou_masami

モデルに現れる「集合」「関係」は、現実的事態を写像したにせよ、「論理」でそれを再現させるからには本物でない。すなわち「翻訳」である。もし、この翻訳に個人の経験則を使えば、ユーザから事態(の実相)を聴取しても独我的になるのは当然だ。

2012-02-13 06:21:30
佐藤正美 @satou_masami

私は 45才の時にはじめて、モデルとはどんなものであるか、その理論を根本的に学ぶより他に、技術者としての私を救う途(みち)はないと悟った。こんな鈍間(とんま)な私でも、エンジニアとしての自省を喪ってはいなかった。

2012-02-13 06:22:34