佐藤正美Tweet_20120301_15

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佐藤正美 @satou_masami

ユーザどうしが伝達している「意味」に形式を与えなければ、憶測の多量に混ざった上滑りの、色々に「解釈」できる概念図をモデルと名付けて流通することが なお続くかもしれない。

2012-03-01 16:45:21
佐藤正美 @satou_masami

独りの力(ちから)では始末できないように事業の中はできている。当然(あたりまえ)だって? では、要件定義と称して「概念図」を描いて社内コンサルタントたる事を自負している SE の顔つきを ご覧なって下さい──自負が手前味噌になってはいないか。

2012-03-01 16:46:17
佐藤正美 @satou_masami

現実的事態を眼前にしてパターンを適用したがる SE は、「論理」(思考力)を使わないで記憶を用いているのである。パターンをちゃんと使うためには適用対象をちゃんと知っていなければならない。それがパターンのパラドックスなのかどうは私にはわからないが、使用の前提であることは間違いない。

2012-03-02 05:27:52
佐藤正美 @satou_masami

「数学基礎論」を学ぶのは難しいって? 中学生の時に学校で習ったはずです、ユークリッドの ことば を──「幾何学への楽な近道というものはない」と。こと学習においては、「わかりやすく、てっとりばやく」というのはナマケモノの性質にちがいない。

2012-03-02 05:28:30
佐藤正美 @satou_masami

ユーザが予定し SE が計画したようにはプロジェクトが捗らなかった理由を列挙すれば、いつも同じような理由ばかりだ。「わが社に任せて下さい、そうすればそんなヘマはしません」、どんなふうにやってみても、「技術」の前に私概念に頼る限りはヘマのリスクぐあいを下げることはできないだろう。

2012-03-02 05:29:33
佐藤正美 @satou_masami

一時間ほど書物を読んで、そして考えれば、おおかたの悲しみも忘れてしまうので、生活の中で不快な事を感じた時には、私は読書し思索することにしている。読書・思索は、私にとって治療薬である。

2012-03-03 01:15:46
佐藤正美 @satou_masami

世間の人たちの真似をするな。「正しい」ものを信じて、それを見つめて学習せよ。それは存するのだ──「論理」の中に、それは存するのだ。じぶんの思考を「論理」で照らす事、「考える」とはそういう事。

2012-03-03 01:16:21
佐藤正美 @satou_masami

しばしば言い習わされているデータ設計法(たとえば、コッド正規形)は後世になって ずいぶんと簡略化されて原形とはややズレて流布されているようだ。その簡略化は、実務上で使用して工夫されたのではなくて、「使用前に」手続きとして短く記憶しようと変形されたままで継続適用されてきたようだ。

2012-03-04 13:44:12
佐藤正美 @satou_masami

規則は短く力強くあるべきだ。ただし、その規則の単純性は、(様々な例外にぶつかって、)実際の適用上で工夫されるべき性質である。簡単に使うために(あるいは、使うために記憶しやすいように)単純化された標語的条規は規則とは云えない。

2012-03-04 13:44:52
佐藤正美 @satou_masami

SE の綴った「『モデル』に関する」書物を読まなくなってから、私の思考が のびのびし、ほんとうに快い気持ちになった。かれらは自身の経験の中で知った業務システムの あらまし ばかり述べていて、モデルを作るために本来守るべき規則(技術)を忘れてしまっているようだ。

2012-03-05 10:50:25
佐藤正美 @satou_masami

私のモデル学習法の法則は三つ、──(1)業務分析法と称した書物は どれも読まないこと。(2)「論理」の書物を読むこと。(3)数学基礎論(モデル論)を学ぶこと。私は文学好きなエンジニアだが、少なくとも仕事をしているあいだは、他人(ひと)の人生論(経験則)を聴こうとは毛頭思わない。

2012-03-05 10:50:57
佐藤正美 @satou_masami

嗜好と同じように経験則というものは、どうしてもその人その人のものである。SE はじぶんの技術的好みをユーザに強いることはできないし、ユーザとしても、SE がじぶんと同じ事業的経験を期待していない。そういう状態の中で共有的な資料となるのは、「論理」にもとづいたモデルである。

2012-03-05 10:51:23
佐藤正美 @satou_masami

ユーザが営んでいる事業について私の知っていることはみんな私がモデルで読んだそっくりそのままのことである。

2012-03-05 10:52:20
佐藤正美 @satou_masami

「(『事実』は)果たしてそうであるか」ということは、エンジニアが分析をなす不断の質問であるべきだ。

2012-03-05 10:53:01
佐藤正美 @satou_masami

事業を観察(分析)する条件は、またこれを構成する条件に他ならないという様な確かな場所で我々は「モデル」という語を使うのである。したがって、モデルは、たとえ思考の産物であっても、実際の事業の中で使われている資料(証跡)という具体物によって多かれ少なかれ制限される模型である。

2012-03-06 11:25:43
佐藤正美 @satou_masami

事業は SE には関係なく存在するが、ユーザが作りださなければ事業はない。そういう世界にエンジニアの科学的精神という一つの才覚が対応する。この才覚は、できるだけ個人的経験則を脱した「形式」の構成を目指す。SE の取り付く島もない事業に対して、認識法として現れたのがモデル論である。

2012-03-07 02:19:30
佐藤正美 @satou_masami

後にも先にも、商品も組織も取引も、いつも唯一無類という事が事業経営である。個々の事業経営を見損なうためには、事業形態の類型化を推し進め堆積するに如くはない。

2012-03-08 00:10:08
佐藤正美 @satou_masami

類例(パターン)は、寧ろ個々の事業の比類の無さをますます確かめる事にすぎない。

2012-03-08 00:11:10
佐藤正美 @satou_masami

事業の機能的構造という言葉の濫用は、客観的機能の体系という疑似法則を生みだした。この客観的という言葉の軽信は、SE の都合の上に立っているにすぎない。SE がどうにかして事業の構造を直ちにわかろうする焦慮が、事業体系をくり返して使えたらどんなに好都合だろうかと望んだにすぎない。

2012-03-09 01:20:23
佐藤正美 @satou_masami

我々は論理力を用いてモデルを構成する。しかも、モデルが「現実」そのものではない事も知っている。我々は「論理」という窓を開けて、外界を観ている。そこに客観的な「真」を見つけだす。尤も「真」が見つかったというより、窓の工夫によって「現実」に対し正確に質問したと云ったほうがいい。

2012-03-10 00:55:32
佐藤正美 @satou_masami

「真」は構成されるものであって存在するものではない、「レーヴェンハイム・スコーレムの定理」を読めばわかる。「現実」は実に多様である。だが、「『真』を構成する」やりかたを確実に掴んで、そういう自信のうえに立って「現実」に臨めば、私智を振り回すのが滑稽にさえ見える。

2012-03-10 00:56:09
佐藤正美 @satou_masami

私は決して優等なエンジニアではなかった。最新テクノロジーは私の気を引かなかった。私の興味はすべて「言語」に向けられていた。現れては消える「様々なる意匠」に荷担するような事は何一つしなかった。事業の実データを分析する外、私はモデル論に耽(ふけ)った。

2012-03-11 08:14:57
佐藤正美 @satou_masami

私がモデル技術を作る途上で久しい以前から懸案だったテーマは「意味の対象説」と「意味の使用説」との対立であった。私がこのテーマを強く意識するようになったのは1990年代半ばであった。このテーマは私の独創ではない。ただこの対立をモデル技術の中で論じたエンジニアは遺憾ながらいなかった。

2012-03-11 08:16:37
佐藤正美 @satou_masami

私は数学のモデル論を学んで、その場所で私を再生した。つまり、「論理」さながらの「理論」の純然たる世界の中でリハビリ(社会復帰の訓練)をした。こうして「モデル」という言葉が私の中に実感として生まれ変わったのである。「モデル」論は、或る意味では「模型」論なのである。

2012-03-12 06:40:02
佐藤正美 @satou_masami

「T字形 ER法」(TM の前身)は決して出来栄えの良いモデルではなかった。だが、そこには現実的事態(事業)の形式化に何んらの私智を計らわずに分析技術の手続き──技術を技術として使う事 [ 構造の構成法 ]──を立てようと足掻いている態度の苦い痕跡は明らかだ。

2012-03-13 08:51:33