mizya125さんの呟き

mizya125さんの一連の呟きをまとめました。
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@mizya125

ここで自分ができることは限られてると思う。でも地元や地元出身者の皆さんとの縁を大切にしてこれからも過ごしていきたい。高田に帰ったら、親孝行して、親友と語り合って、地元商店で買い物をして、外食をしたりしたい。3月11日、高田には帰れないけどここで高田のことを想って過ごします。。

2012-03-09 12:37:30
@mizya125

あれから1年。もどかしい気持ちは今も変わらない。高田に行って役に立つかは別としても、地元に帰りたい気持ちもずっと心の中にある。それでも今はここでがんばるしかない。そうすることで両親や親友が安心してくれる。両親・親友とは前より頻繁に連絡を取るようになった。何気ないメールや電話で。

2012-03-09 12:31:28
@mizya125

親友は「申し訳ないなんて思わないで。高田のことを想ってくれてるだけでも心強いし、ありがたいよ。今は子どもたちと一緒に笑っていてほしい。」震災後、数日間勤務先から動けず、わが子と一緒に居られなかった親友の言葉は強く響いた。

2012-03-09 12:25:36
@mizya125

その2日後、後ろ髪をひかれながら青森に戻った。震災前とほぼ変わらない生活ができることはありがたいことなのに、高田のことを思うと後ろめたい気持ちで、何もできないもどかしさはいつまでも消せなかった。そんなときに救ってくれたのは、高田にいる親友だった。

2012-03-09 12:23:07
@mizya125

私は1泊しかできなかったから、3時間程町内を歩いてから妹と一緒に実家に戻った。母の車で送られてまたバスで盛岡に戻った。がれきを運ぶダンプとすれ違ったが、運転手は同級生のお兄ちゃんだった。「お兄ちゃんありがとう、みんな、何もできなくてごめん」と思いながら高田を離れた。

2012-03-09 12:20:32
@mizya125

周りにあった家も土台しか残っていない状況。祖母宅の隣にあった私の同級生宅の門と塀が残っていたから、やっと祖母宅の場所が分かった位だった。祖母宅の所には建物の鉄骨の塊が流れ着いていて、近くまでは行けなかった。高校に行ったら、部活をやっていた3階の音楽室まで津波が到達していた。

2012-03-09 12:11:53
@mizya125

翌朝、妹と一緒に市内に下りた。今は亡き祖母が住んでいた家の辺りまで行ってみたかった。私は母校の高田高校も見ておきたかった。松原地区にあった祖母宅は既に別な人が住んでいたけど、私たちにとっては思い出のつまった家。見ておきたかった。小学校脇から川原地区を通って祖母宅のあった辺りへ。

2012-03-09 12:07:03
@mizya125

それから盛(立根?)のマイヤへ。夜にささやかながら「母の定年退職、お疲れ様会」をしようということになったので、父・妹と買い出し。震災がなければ盛大にお祝いして労いたかったけれど…。自宅に帰ってきた母は疲れている様子だったけれど、それでも喜んでくれた。その顔が見れて、嬉しかった。

2012-03-09 12:03:10
@mizya125

名残惜しかったけれど、元気に再会しようと約束をして親友と別れる。その足で今度はお隣大船渡の妹の友人宅へ。妹が物資を届けに行く。一緒にその子の家の近くを歩いたら、ねじ曲げられた線路や、辺りに散らばっている生活の証である家具や食器や布団やおもちゃが目に入ってきた。。

2012-03-09 11:59:36
@mizya125

校庭のがれきは寄せられていて、スペースが空いたところに警察や消防の車が停まっていた。学校から下にある建物はほとんど残っていなかったから、海がすごく近くに見えた。それから市内の別な町の対策本部にいる親友のもとへ。いつもの笑顔を見れたら、涙が止まらなくなった。

2012-03-09 11:55:22
@mizya125

父が迎えに来て実家へ。壁にヒビが入ったりしていたけど、大きな被害はなかった。猫も無事。それから母のいる学校へ向かう。父と会ったときはそうでもなかったけれど、母と会ったときは泣きそうになった。その日で定年退職する母の荷物を預かるため、校舎2階へ。窓から見る景色にまた言葉を失う。

2012-03-09 11:50:53
@mizya125

あったはずの家や建物がない。見慣れた景色はそこにはなかった。そして自動車学校到着。練習コース内には警察や自衛隊の車両が見たこともないくらい停まっていた。近くの無事だった民家の入口には「○○町の○○家はここにいます」という手書きの看板。被災した人たちが親戚宅などに避難してきていた。

2012-03-09 11:47:02
@mizya125

海からはだいぶ離れている、こんな上流にまで…。車や家の一部、松原の松の木。ピアノ。しばらくは道路沿いの民家も以前と変わらない様子だったけど、ある地点からまた景色が一変する。家が建物がことごとくやられている。竹駒町まで津波が来たとは聞いていたけど、目の当りにすると言葉が出なかった。

2012-03-09 11:43:59
@mizya125

高田に向かう道中、遠野あたりだったろうか「ご支援ありがとう!」の手書きのメッセージが沢山目についた。住田町あたりでは、関西地方の給水車とすれ違った。自衛隊や警察車両ともたくさんすれ違った。景色が変わったのは高田市内に入って間もなく。川岸にがれきが流れ着いていた。車内がざわめく。

2012-03-09 11:40:54
@mizya125

東京在住の妹が高田に来る日に合わせて、震災から20日の3月31日朝、盛岡駅前発自動車学校行きのバスに乗る。妹と高田出身の妹の友達と一緒に。それぞれ、持ちきれないくらいの大荷物。実家や友人に届ける物資を持てるだけ持ってきたからだった。他の乗客も皆、大きな荷物を抱えていた。

2012-03-09 11:36:40
@mizya125

旦那の両親も高田のことを心配してくれていて、会いに行っておいでと言ってくれた。子どもたちを旦那実家に預けて、高田に行くことにした。ひとまず1泊。親友にも連絡を入れ、必要なものなどを聞いて盛岡市内に買い出しに行った。そこで見つけた貴重な酔仙のお酒も買った。

2012-03-09 11:32:45
@mizya125

今すぐにでも高田に行きたいけど、ガソリンがなかなか手に入らない状況が続いていた。行くとしても、子連れでは行けないだろうし。そして震災から2週間近く経って、市内でもガソリンが買えるようになってきて、岩手に帰ることを決断。ひとまず、26日に内陸にある旦那の実家へ。

2012-03-09 11:14:41
@mizya125

高田に住んでいた同級生やその家族の安否の連絡が回ってくるようになる。被害状況も明らかになってきて、小学校の同級生の多くは実家が被災したことも判った。18日には親友から直接電話があり、彼女の声を聞いてまた泣けた。

2012-03-09 10:56:01
@mizya125

そして15日。やっと親友の無事がわかる。親友の旦那さん、子どもたち、両親や義両親も無事だとわかる。生きていてくれてよかった…本当によかった。子どもたちが寝てから号泣した。

2012-03-09 10:52:29
@mizya125

そのうち、避難者名簿がネットにUPされてきて、くまなく探した。山田町在住の旦那の祖父母・家族の安否もわからなかったので、そちらの情報も探していた。15日に旦那両親が山田町に入り、祖父母・家族の無事を確認。ただし、祖父母宅は流失。。

2012-03-09 10:50:27
@mizya125

両親の無事が判ってからは、同級生や同級生の家族、高田以外の沿岸に住む友人の安否確認。特に、なかなか安否のわからない親友とその家族のことが心配で仕方がなかった。

2012-03-09 10:47:06
@mizya125

14日妹夫婦が高田へ。実家に着くと、車の音を聞きつけて父が外に出てきた。「おう!」って。涙の再会ではなく、普段の帰省のような感じで力が抜けた…と妹談。それから母が詰めていた避難所へ父と妹夫婦で向かい、妹が両親の2ショットの写メを送ってくれた。それを見て安堵の気持ちで泣き崩れた。

2012-03-09 10:44:17
@mizya125

13日夕方、盛岡に住む伯父から妹に連絡。今日の岩手日報に母のコメントが載っていたよ!と。インタビューに答えている=生きているってこと!!よかった…本当によかった。そして、岩手内陸在住の妹夫婦が翌日高田入りして直接両親の安否確認をすることになった。

2012-03-09 10:37:50
@mizya125

そして、実家の両親から連絡が来たとか衛星電話で連絡が入ったとか、無事の報告も入ってくるようになる。相変わらず、両親とは連絡が取れない。祈るしかない。

2012-03-09 10:34:34
@mizya125

13日のお昼頃、同級生の1人がダメだったみたいだ、という連絡が入る。震災で初めての身近な犠牲者。「これからはこんな連絡が入ってくるだろうから、覚悟しておこう」という同級生男子の言葉。。

2012-03-09 10:31:43