ラカン 欠如と欲望

個人的なまとめ
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schizoophrenie @schizoophrenie

人間には象徴的秩序が先行していて、ひとはその秩序を受け入れることによって人間になる(象徴界に参入する)、という話がある。この話は、人間のもつ言語の獲得や、主体の形成といった文脈で受容されがちであるが、もともとはきわめて臨床的な文脈から出てきていることは無視されがちである。

2012-03-10 13:02:55
schizoophrenie @schizoophrenie

子供の誕生を考えてみれば、このことはすぐ分かる。子供は受精以前から既に「家族の物語」の中にいるのである。今度は男の子が欲しいね、名前は何にしよう、こういう子供に育つといいな、という話から、あるいはより病理的な形として、先に死んだ子供の「代わり」として位置が与えられることもある。

2012-03-10 13:05:48
schizoophrenie @schizoophrenie

亡くなった子供や家族と同じ名前を、次に生まれてくる子供につける、という事例もときおり耳にする。こうして生まれてきた子供は(必ずではないが)誕生以前から家族の中での象徴的位置が固定化されてしまっている。家族の要求の網の目のなかに囲い込まれ、欠如をもたない存在となってしまうのである。

2012-03-10 13:08:40
schizoophrenie @schizoophrenie

このような生誕のあり方は、思春期以降に「私とは何なのか?」という根源的な自己言及の問いの登場とともに、さまざまな神経症構造を露呈させる、とラカンは言っているのである。そこで主体は、自ら「欠如」の存在を示す。それは欲望であったり、症状であったりする。

2012-03-10 13:11:51
schizoophrenie @schizoophrenie

この欠如=欲望の提示をもっとも強力に行うのが拒食症という構造である。彼女たちが家族のなかで自分が占めさせられている位置には、欠如がない。そこで彼女たちは欠如=無への欲望(無を食べること=何も食べないこと)を貫徹する。そうすることは彼女たちにとって生きる唯一の手段ですらあるからだ。

2012-03-10 13:15:20
schizoophrenie @schizoophrenie

現在作業中の本では、この拒食症の構造が、皇紀エリザベート、アンティゴネー、シモーヌ・ヴェイユ、シエナのカテリーナについてその詳細な精神分析的伝記とともに解明されている。精神分析によるきわめて臨床的で実地的な理解であり、その筆致はきわめて美しい。

2012-03-10 13:19:42