なぜ、オランダは17cになって急にイタリア都市国家に代るようになったのか?

17cオランダヘゲモニーが生まれた背景として。「なぜ、ブルゴーニュ付きの湿地であったネーデルラント(アムステルダム)が17cになって急にヴェネツィアなどに代るようになったのか?」についてのお勉強メモ。ネーデルラント→ユトレヒト同盟→オランダが成立していく過程として。              <ブルゴーニュ、北海交易の中心としてのブルージュ(ブリュッヘ)にヴェニス・ジェノヴァ・ハンザなどが投資するもブルゴーニュ公国がなくなることでブリュッヘが衰退→アントワープが中心に → 80年戦争初期に負けた商人などが自由を求めてアムスに移動>               + 続きを読む
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近代の序章としての三十年戦争 第三部「ヴェストファーレン条約とその後」 | Kousyoublog
http://kousyoublog.jp/?eid=2592

--当時のオランダはスペインに対する独立戦争の真っ只中にあり、一五六八年以来すでに七〇年近く戦い続けていた。この超長期間にわたる戦争継続のための資金は、直接的には借入金だが、それを常時返済し続けることを可能にしていたのが武器貿易であった。特に一六二〇年代以降、オランダが輸出する武器を製造するための鉄や銅のほとんどがスウェーデンからバルト海経由でアムステルダムに運ばれて加工され、諸外国に輸出されていた。その輸出品最大の輸入先がフランスであった。「一六二七年から一六四一年にかけて、リシュリューは、銅・硝石・火薬・弾丸・マスケット銃・大砲をアムステルダムで購入したのである」(注1)

スウェーデンの失墜によるバルト海制海権の喪失はそのままオランダの弱体化を招き、オランダの弱体化はスペイン・ハプスブルク家の伸張だけでなくフランスの弱体化に繋がる、という国家間で相互に連関する世界システムの萌芽がすでに芽生えていた。

m_um_u @m_um_u

ウェストファリアの頃に意外なほどオランダが強くなってた経緯がよく分からんのだよなぁ。。

2012-04-17 17:05:42
m_um_u @m_um_u

マウリッツの軍事改革とかあるけど、それ以前にバルト海の覇権におけるスウェーデンとの関係とか、ヴェネツィアからのヘゲモニーの移行の経緯がよく分からん。。

2012-04-17 17:08:50

マウリッツ (オラニエ公) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/マウリッツ_(%E3%82%AA%E3%83%A9%E3%83%8B%E3%82%A8%E5%85%AC)

--マウリッツが従兄のナッサウ=ジーゲン伯ヨハン7世(叔父ヨハン6世の子)とともに行った一連の軍事訓練は、「軍事革命」とも評価される画期的なものであった。もちろん、従来の軍隊にも軍事訓練はあったが、マウリッツはその訓練を非常に精緻なものとした。例えば、銃を扱う際にも、その動作を数十にまで細分化し、かけ声に合わせて一斉に動作できるようにした。また、行進の規則を定めることで、指令に従って軍団が迅速に陣形を変えることを可能にした。こうした訓練は、非戦闘中の兵士の士気を維持させることにもなった。また、訓練を通じて、本来傭兵の寄せ集めでしかない軍隊の中に、ある種の連帯意識を形成させることにも寄与した。

これらの訓練マニュアルは秘密裏にされず、書物として刊行された(『武器の操作、火縄銃・マスケット銃・槍について、オラニエ公マウリッツ閣下の命令によって著す』、日本語未訳)。そのため、諸外国がマウリッツの教練を参考にして、自国の軍隊を鍛え上げるようになった。

さらにマウリッツは、パイク兵の方陣(テルシオ)による白兵戦闘が主流であった当時のヨーロッパの陸戦を刷新し、三兵戦術の基盤を築いた。マウリッツが生きている間は、それでも名将アンブロジオ・スピノラ率いるスペイン軍との戦闘は五分五分といったところであったが、彼の死後、オランダは当時ヨーロッパ最強の軍事大国であったスペインとの八十年戦争を乗り切って完全独立を果たすことができた。

またマウリッツは将校を育成するための士官学校も創設した。この士官学校の卒業者の中には、のちにバルト海一帯の覇権を握るスウェーデン王グスタフ2世アドルフに仕える者もいた。スウェーデン軍の強化は、この卒業生の功績によるものも大きいと推測されている。このように、軍事史におけるマウリッツの影響は、オランダ一国にとどまらずヨーロッパ全体に広まった。

加えてマウリッツは、軍隊にステヴィン、アローム等の優れた数学者・技師などを招き、新兵器の開発も振興した。

m_um_u @m_um_u

ハプスブルクがブルゴーニュ継いで、スペイン・ハプスブルクが大航海時代に太陽の沈まぬ国になって、その関係でバルト海の北ヨーロッパへの貿易港としての可能性を広げていったのかな?と思うけど。

2012-04-17 17:11:46
m_um_u @m_um_u

資本はそういう風に入れられたとしても、自由都市的な魂はブルゴーニュな誇りだったのかのぅ。。そゆのとは関係なく商人力が強くなっただけか

2012-04-17 17:11:51
m_um_u @m_um_u

間にアントワープが挟まってオランダて感じか。

2012-04-17 17:19:21
m_um_u @m_um_u

どっちにしても地中海からバルト海沿岸に商業金融の拠点が移動していった経緯がよく分からんなぁ

2012-04-17 17:21:50
m_um_u @m_um_u

http://t.co/BExqaZ1B ベタだけどたたき台として便利(ヴェネツィア、アントワープ、オランダ、イギリス ヘゲモニーちょっと含んだ説明)

2012-04-17 17:38:31
m_um_u @m_um_u

http://t.co/v2k461gm 中国が一番富んでて、ヨーロッパへの貿易としてはオスマンがそれとスパイスを握ってて、その利益をさらに独占してたのがヴェネツィアほかイタリア都市国家だったけど、ポルトガル・スペインなど領域国家が別ルート開拓で出し抜こうとしてたら新大陸も発見

2012-04-17 17:49:05

ヴェネツィアの栄光と没落:海神日和:So-netブログ
http://kimugoq.blog.so-net.ne.jp/2009-02-24

--〈……航海王子エンリケの遠征隊が熱心にセウタの南に向かいはじめる数十年前に、中国人がアフリカを回航し、ポルトガルを“発見”できて何の不思議もなかった〉
セウタはジブラルタル海峡に接する町。ポルトガルの王子エンリケ(1394-1460)はこの町のイスラム勢力を攻略したあと、金と香辛料を求めて、アフリカ航路を開く。
これに対し中国明代の鄭和(1371-1434)は、120メートルを超える大型船でアフリカのケニアまで航海しながら、それ以上は進まなかった。
どうしてなのか。
ヨーロッパにとってアジアは富の宝庫だったのに、中国からみれば西方には何の財宝もなかったからである。
イスラム商人に独占されていたアジアの富を直接手に入れたいという思いからヨーロッパの膨張は始まった。
その取引を担った中世末期の「四大都市国家」、すなわちヴェネツィア、フィレンツェ、ジェノヴァ、ミラノを、アリギはヨーロッパの「下位システム」と呼んでいる。
「下位」というのはその背後に、ヨーロッパの中世システムを控えていたからだが、それでもヴェネツィアは将来の資本主義国家の「完全なモデル」となった。
アリギはこう書いている。
〈イタリア都市国家全般、とりわけヴェネツィアの命運は、西ヨーロッパをイスラム世界を通じてインド、中国と結びつける通商貿易の鎖の中で重要な一環を独占的に支配することに、ひとえにかかっていた。どの領土主義的国家も、この独占を奪回できる力をもたなかった。しかし、特定の領土主義的支配者は、金銭の流れと供給物資をヴェネツィアから自国の貿易回路にそらすために、西ヨーロッパとインド・中国の間に直接的な環を確立する試みを行えたし、実際に試みたのである。その先頭に立ったのがポルトガルとスペインであった。両国を指導し援助したのは、ヴェネツィアによって地中海の最ももうかる取引から閉めだされたジェノヴァの経済主体であった。ポルトガルは成功したが、スペインは失敗した。そのスペインは、富とパワーのまったく新しい源泉、アメリカ大陸を偶然に発見することになった〉

m_um_u @m_um_u

http://t.co/SGAzrC7G 実証性は低い、と言いつつも計量経済では説明できない「産業革命はなぜイギリスで起こったか」「イタリア都市国家からオランダにヘゲモニーが移った背景は?」辺りを考察。当時のバルト海情勢についての解説も、と

2012-04-17 17:56:58
リンク t.co 近代ヨーロッパの誕生 オランダからイギリスへ (講談社選書メチエ):アマゾントップ:本 アマゾントップ:近代ヨーロッパの誕生 オランダからイギリスへ (講談社選書メチエ)

--ヴェネツィアを代表とする地中海貿易が衰退し、
重点が北方ヨーロッパに移っていく。

その理由は、地中海システムは、ヴェネツィアとジェノヴァが宿敵関係だったように、
各都市が自らの利権に執着し、お互いが関連しながら共通の「全体的な貿易機構」をつくることができなかった。

一方「北方ヨーロッパシステム」は、国家が主導するのではなく、オランダ・アムステルダムが中心となり、
近海や河川を活用した「ゆるやかな均質的貿易システム」が誕生した。

地中海世界での森林資源の枯渇、人口増大による食糧危機を
ヨーロッパ最大の穀倉地帯だったデンマークの穀物が支えた。

その貿易拠点となったオランダが、経済力を蓄積し、北方ヨーロッパシステムの拠点都市となる。
広域システム全体の主導権を握るヘゲモニー国家が誕生する。

m_um_u @m_um_u

http://t.co/7dUojzwt コンスタンティノーブルの陥落によってそれまでの通商ルートが使えなくなり新航路開拓のチャンスが。航路開発のリスクを埋めるために株式会社などの会社組織が考案される

2012-04-17 18:04:23

第3章  株式会社の誕生と簿記の進化
http://www2.plala.or.jp/dogcat/kabusikikaishanotannjyou.htm

--この大航海時代の到来は、1453年に東ローマ帝国が滅亡すると同時にオスマン・トルコがシリア、エジプト方面に進出し、地中海貿易の東方ルートが破壊されたことによるものという。
 当時の、フランス、スペイン、ポルトガル等の諸国が外国と交易をする場合は、地中海を経由するほかなく、イタリア諸都市が地中海貿易を独占していたことは、これらの諸国がもっとも喜ばないところで、地中海を通らない新航路の開拓を希望していた。
 オスマン・トルコによって地中海経由の東方ルートが破壊されたことは、これらの諸国の交易は、必然的に大西洋及びアフリカ西岸経由でインド洋に達する航路の開拓へと導くのである。
  さて、この大航海時代の到来と株式会社の誕生はどう結びつくのか。
 その理由の第一は、大航海による交易は多額の利益をもたらしたこと。すなわち、香辛料は肉食中心のヨーロッパ人の食卓には欠かせないものであり、木綿、砂糖、薬種、絹等は奢侈品であるとともに必需品であったことから、これらの交易は、多額の利益をもたらしたのである。
 「彼らが東方への航路を探し求めたのも無理はない。そこには、貨幣が…・実にたんまりの貨幣がころがっていたのだ。ヴァスコ・ダ・ガマの最初のインドへの航海では、利潤は実に6000%だった! ほかの船が、これと同様に危険ではあるが利益の多い航海をしたことも不思議ではない。商業は飛躍的に発達した。ヴェネチアはこれまでエジプトのサルタンから、毎年42万ポンドの胡椒を買付ていたにすぎなかったのに、いまではポルトガルへの帰航の途上にあるただ一艘の船が20万ポンドの胡椒を船倉のなかにつみこんでいたのだ!古い東方ルートがトルコ人に奪われたことはもはや問題ではない。ヴェネチア人がひどい高価格を要求することももはや問題ではない。喜望峰を経由する東方ルートは、商人たちにとってトルコ人の好意を不必要なものにし、彼らにヴェネチアの独占を打ちやぶらせたのだ。いまや商業の流れの方向が変更された」(1953岩波新書 小林良正・雪山慶正訳 レオ・ヒューバーマン「資本主義経済の歩み(上)」)

第3章  株式会社の誕生と簿記の進化
http://www2.plala.or.jp/dogcat/kabusikikaishanotannjyou.htm

--肉食を中心とする当時のヨーロッパにおいては、香辛料は欠かせなかった。中世紀末のヨーロッパでは、「風に飛び散らないように窓を閉めて大商人が一粒一粒、胡椒をピンセットで数えた」(1989 講談社現代新書 浅田實「東インド会社」)ほど香辛料は貴重なものとされた。
 当時のイギリスでは、毛織物の衣服が主流であり、インドから輸入された木綿(キャラコ:カリカット製の布という意味)は安価で清潔であったことから爆発的に売れ、過熱ぶりにキャラコ禁止法が制定されたほどである。
 この商業の本街道が、地中海から大西洋に移り、ポルトガルやスペイン、さらには、オランダやイギリス、フランスなどが商業上優位に立つのである。歴史上この時代を「商業革命」(commercial revolution)と呼ぶ。
 第二の理由は、宗教の呪縛が解かれたことである。「商業は詐欺行為を含み霊魂の浄化に危険である」とする考え方が、やがて自らの教会活動資金が必要になると「商売でも利得を強く貪らないかぎり有用な産業と認める」と宗旨変えを行った。
 これらのことによって、人々の射幸心はいやがうえにも増幅され、宗教の呪縛からも開放されたお金は金櫃から外に飛び出したのである。
 しかし、当時の外国貿易は、はなはだ未知の大西洋や東インド洋に乗り出すものであったから、生命身体に危険を及ぼし、また失敗したら元も子もなくなる一六勝負であった。非常に魅力的な事業ではあったが、これらの危険な事業に自ら出て行こうとするには勇気が必要であった。儲けたいけれども危険はいやだ。出て行こうか止めようか。この板挟みの状況の解消策はすぐ見つかった。すなわち、「金はあるが自らは危険な目にあいたくない者」と「金はないが度胸と勇気がある者」の組み合わせである。
 この一六勝負に伴う危険と資本の冒険を同時に緩和する方法として考え出されたのが、ジョイント・ストック・カンパニー(Joint Stock Company 株式会社)である。
 ジョイントは共同を、ストックは商品・在庫を、カンパニーは組合・会社を表す。

m_um_u @m_um_u

http://t.co/DEjdA2QO 15c後からのアントワープ繁栄について。イングランドの毛織物の貿易港として。それとは別にポルトガルがアントワープを貿易港にしたから(ボヘミアの銀鉱に近かったからかなぁ。。?

2012-04-17 18:16:21
m_um_u @m_um_u

http://t.co/rlgUI3Ba アントワープの発展とブルゴーニュの関係

2012-04-17 18:21:42
m_um_u @m_um_u

シャンパーニュとブルゴーニュって消費地が近かったのでヴェニス→ブルージュホットラインができておりブルージュは北の商業中心地として発展。シャルル突進公の死でブルゴーニュが衰退したのをうけヴェニス商人がアントワープを拠点とし始めた(水運が良かった)

2012-04-17 18:39:23
m_um_u @m_um_u

アントワープの宝石技術 http://t.co/uoFHVV5c ブルゴーニュの歴史辺り http://t.co/2iUIHA19 ホイジンガとか http://t.co/9PdXvXMi ブリューゲルとか 堀越孝一とか http://t.co/VPbvUo4n

2012-04-17 18:46:36

bunkamura「ブリューゲル 版画の世界」展へ行ってきたよ: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/158036122.html

m_um_u @m_um_u

ダイヤモンドの歴史とヨーロッパの覇権 / “アントワープの歴史・・・Fancy Colordiamond“Cosmic”” http://t.co/e0XIjNee

2012-04-17 18:48:03
m_um_u @m_um_u

そんで80年戦争の初期に食料備蓄的に追いつかなくてスペインにアントワープが負けてプロテスタントほか自由を求める人達がアムステルダムに移住 http://t.co/hQop6Lu4

2012-04-17 18:56:57
m_um_u @m_um_u

まだ、ちゃんとしらべてないけどオランダが強くなってたのはアントワープでの敗北の反省から食料備蓄とか、アンシャンレジームとは別の国との協力関係を強めようという意識があったからかなぁ。経済的にも軍事的にも(軍事も食料備蓄も自分でまかなえるところはまかないつつ)

2012-04-17 18:58:56