僕の作品はあくまで渋家であって、渋家のパフォーマンスではないです
- macedoniablue
- 10182
- 0
- 2
- 0
フォーマリズムの歴史においてミニマリズムがシアトリカルと言われるように、形式化というのは演劇化ということと同期しているのではないかとか思った。つまりモノの形式を徹底的に突き詰めるとコトへと昇華するのではないか。茶道や剣道や儀式や祝祭はその端的な例だし、渋家もどんどん演劇的になる。
2012-04-19 13:04:37岸井さんが昨日「演劇⇄集団」ということを言っていて、演劇が集団を作ることと、集団が演劇を作ることがあると言っていたが、それで言えば渋家は集団が増えるごとに演劇的な要素が強まるサイクルを繰り返してきた。そして実際に演劇をやろうとして、いつも集団の奔放さに負けて失敗するのを見てきた。
2012-04-19 13:08:33それは岸井さんが達した結論「演劇→集団」となる事は現代においては稀で「演劇←集団」となることが必然なのだ。ということと合致する。しかし私は最近「演劇→集団」と言えるような作品も作りたいと感じる。それは現代において無数に転がる物語、私の物語ではなく、皆の物語を作りたいという欲望だ。
2012-04-19 13:11:34それから私の物語を追求しモノからコトへの変質を追求していくと、最終的には社会を変えるための手段は選んでいる場合ではなくなる。すると「最も優秀な社会人が最も優秀な芸術家である」という結論に達する。私だったら「あえて」不動産ディベロッパーとかになってシェアハウスを作ったりすれば良い。
2012-04-19 13:15:51しかし私の中の愚かな部分がそれを許さない。結局のところ作家であるということは愚かであるということなのだ。そして愚かな私は物語を共有できるという楽観的な希望を持っており、それは前述の私の物語ではなく皆の物語を作りたいという欲望に繋がる。渋家も最初は皆の物語だったが、今は私の物語だ。
2012-04-19 13:19:24ある瞬間から皆の物語が私の物語になる。無限にそこから逃げ続けるのが作家という楽観的な生き物の務めだ。不可能性を指摘されても共同幻想を夢見るのはユートピアを夢想しなければ死んでしまうダサい生き物だからに他ならない。全ての人々の心にユートピアを植え付ければ世界は変わると信じたいのだ。
2012-04-19 13:25:53