表象力、語彙の深みは、そのまま見える世界の深みにつながると思う。「キモい」「ウザい」「ヤバい」という単語でしか語れない少年少女たちにとって、世界は<キモいウザいヤバい何か>としてしか存在できない。そこに機微はないのだろう。ということを村上龍を読んでいてなんとなく考えた。
2010-06-18 01:31:24だから、読書というものが推奨されるのではないだろうか。まるで渇いたパンにミルクティーが染み込むように、読み物は脳内に異世界をつくりだす。と同時に、その異世界をなんとかうまく表現できるような語り方を提示してくれる。気がする。
2010-06-18 01:37:59私たちはミルクティーでひたひたになったパンを一噛み、一噛み大切に味わい、世界がこんなにも豊かで深いものなのか、と驚嘆する。そしてその語法を、世界の襞を、少しずつふやしていく。
2010-06-18 01:43:44と、ここまで書いてて気づいたことは、「私は博多弁で小難しいことを考えることができない」ということ。こういうことを思考するときは、基本的に関東か関西のことば。留学から帰ってきた人が「論理的に考えるときは英語」とかいうのと同じじゃないか?!(わりとどうでもいい話)
2010-06-18 01:51:12逆に、リラックスしているときや虫や動物に話しかけるときは博多弁なる。「何しようと?お留守番しとうとね?えらかねーナデナデしちゃあたい!うりゃうりゃうりゃ」的なwww
2010-06-18 01:53:26(ちなみに今のセリフはスーパーの前などで犬がポールに繋がれて大人しくしているときに使う)小さな子どもなどに対しても博多弁。で、先輩と議論するときとかはあんまり訛らない。関西の友達とおしゃべりするときはにわか関西弁ときどき博多弁。地元の友達や家族とは博多弁ときどきにわか関西弁。
2010-06-18 02:03:26それで、言いたかったのはさ、世界を語るための語り口ってのは大事だね、ってことなんですよ。私が英語教育の早期導入に抵抗あるのはそういうところからきてるのかも。
2010-06-18 02:09:35早くから英語に触れることを否定している訳じゃない。だけど、彼等は日本語でものを考えるわけでしょう。(将来的にどうなのかは別として)で、世界をかたる語法が一番ブワワワと広がる時期、思考の方法を劇的に獲得していく時期に、あえて他の言語にウツツを抜かす必要ないんじゃないの、と思うわけ。
2010-06-18 02:13:42佐伯啓思が「学部時代は日本語文献だけ読んでいればよろしい。なぜなら、日本語で読むべき本がたくさんあるからだ。それを読んでもいないのに、やれナントカの英語文献を読んだだの、英語が読めなくてはだのを言うのはあかん」みたいなことを言ってた。私もそうだと思う。
2010-06-18 02:17:19いや、そりゃあ同時に出来るのんが一番いいかもしれんよ?「読書量増やして、同時に英語も読めばええやないか」とか。それは分かってる、分かってるけどさ。そういうことじゃないのよ。
2010-06-18 02:18:35語彙語法があまりにも共有されていないとき、対話って成立しないよね。出来杉君:「なんかさースネ夫って虎の威を借る狐みたいなとこない?」のび太君:「?」みたいな。あれ、なんかちがう?
2010-06-18 02:27:42