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《盆踊り2.0》のまとめ part1-ディアスポラ・郊外・プリキュア-

ふとした思いつきから実現目指して計画中、アップデートされた盆踊り《盆踊り2.0》のまとめ第一弾です。 2012年4月に終末思想研究会で行った「花見2.0」についてはこちら。 1日目 http://togetter.com/li/286757 2日目 http://togetter.com/li/28824 続きを読む
人文 盆踊り 郊外 花見
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ワクテカ @rewktk
RT@teramat 花見の次は盆踊りかな…!
ワクテカ @rewktk
RT@teramat 気が早いけど《盆踊り2.0》に備えて、クラブとかレイブとか詳しい人を探さないとなぁ…あと盆踊りプロフェッショナルなおばさまたち
ワクテカ @rewktk
RTteramat「全然知らない団地の夏祭りに勝手に参加して、ひたすら踊って帰ってくる」という昨年夏のよくわからない経験が、《盆踊り2.0》の発想の源にあります
ワクテカ @rewktk
RTteramat ウィキペディアによると、盆踊りはもともと「精霊を迎える、死者を供養するための行事」であり、また「村落社会において娯楽と村の結束を強める機能的役割を果たし」ていた。つまり地縁的共同体と結びついている
ワクテカ @rewktk
RTteramat 僕が勝手に参加した団地の夏祭りでは、神社ではなくて(というのも郊外にそんなものはないので)サッカーゴールのある小さな公園で開催されていた。学校の校庭でやってるところもある
ワクテカ @rewktk
RTteramat 僕のすごくユートピア的な妄想としては、伝統的な「花見」や「盆踊り」をパッケージングし直すことで、共同体を維持・強化するのではなく、もっとリベラルな空間を作り出すことができるのではないか、というものです。それは「日本的なるもの」を書き換えることでもある
ワクテカ @rewktk
RTteramat それはたとえば海外の日本食レストランのようなもので、明らかにおかしな料理や内装なんだけど、でもそれが「日本的なもの」として受け入れられている。そういうものを「真正な日本食ではない」と批判するよりも、僕としてはむしろその可塑性に可能性を見たい
ワクテカ @rewktk
RTteramat だとすると「桜(っぽいもの)」さえあれば、それはもう花見なのではないか。たとえそこに日本人がひとりもいなくても、あるいは日本から遠く離れた場所で行われていても、それは立派な花見なのではないか
ワクテカ @rewktk
RTteramat 盆踊りも同じで、プリキュアのエンディングのダンスを盆踊り風にできないか、とかちょっと考えています
ワクテカ @rewktk
RTteramat 盆踊りが重要なのは、地縁的共同体を越えられない代わりに世代を越えることだと思う。そして世代を越える作品といえばプリキュアである。ここにおいて盆踊りとプリキュアの組み合わせは必然となるのだ!( ゚д゚)クワッ
ワクテカ @rewktk
RTあまり花見2.0の実現の前に盆踊り2.0について語るのもどうかと思うけど、てらまっとさんが盆踊り2.0を着想するきっかけとなったエピソードから思うところあったのでツイートします。
ワクテカ @rewktk
東日本大震災の後、ある国の日本人コミュニティで追悼のために盆踊り大会が開かれたと聞く。海外に渡った日本人達によって広く盆踊りが行われていることは知られている。それらは従来の伝統から切れており、可塑的である(例:必ずしも盆に行われない。太鼓の代わりにラジカセで代用)。
ワクテカ @rewktk
佐々木友輔監督の映画『新景カサネガフチ』の中でも確か取手駅前で行われる盆踊り(?)のシーンがあった。郊外の駅前広場で行われる盆踊りは、地域共同体的な繋がりから切れた郊外住民の間で、盆踊りというプログラムを通じてある種の共同性が立ち上がっていることを意味しているのだろうか。
ワクテカ @rewktk
若林幹夫さんの『郊外の社会学』によれば、盆踊りをはじめとする郊外の祭やある種の習慣は、地元住民ではなく新住民によってもたらされ、新しい地域の繋がりを生産する為に行われてきたのだという。例えば若林さんが住んでいた町田市のある町では、初詣でさえそうだったらしい。
ワクテカ @rewktk
郊外と海外の盆踊り。これらに共通するのは、移動の中に住まい、土地との(自明な)繋がりを失った人々が、盆踊りという身体作法を通じてローカリティを生産しているということだろう。ディアスポラ文化としての盆踊り。
ワクテカ @rewktk
外国で食べる日本食のように、流通の過程でコンテクストから離れ、キッチュ化した文化が、それゆえ可塑性に富んでおり、偏狭なアイデンティティの生産よりもむしろリベラルなユートピアの創造に資するというアイデアは、とても面白い。
ワクテカ @rewktk
花見2.0と盆踊り2.0は、人々の帰属、記憶、共同性といったものが、必ずしも土地と結びついているのではなく、むしろ移動を前提として、モノ(「桜」)や身体作法(花見という行為、盆踊り)によって生産されるという認識に立ち、それを行為遂行的に示す試みと言うことができるかもしれない。
ワクテカ @rewktk
RT@teramat 花見にしろ盆踊りにしろ、コンテンツが同一性を保ったまま流通=伝承されるのではなく、さまざまな変形や分解をこうむって拡散するプロセスこそが重要なんだ、という話でもあります
ささきゆうすけ @sasakiyusuke
.@wktk2nd さんの盆踊りの話、映画の文脈から考えるとやっぱり外せないのは『略称連続射殺魔』冒頭に出てくる網走のお祭、あるいはそれについて触れた松田政男氏の著作『風景の死滅』だなと思います。
ささきゆうすけ @sasakiyusuke
その土地には無かったはずの大名行列を模した奇妙なお祭りに、地方の東京化=土着性を失った均質化、つまり後に郊外化として語られるものを読み取ったわけですね。
ささきゆうすけ @sasakiyusuke
時代的に当然のことなのかもしれないけど、『略称連続射殺魔』が69年、いわゆる団地妻ブームをつくったと言われる『団地妻 昼下りの情事』が71年で、現在の郊外論の原型となるような映画がこの時期につくられているんですよね。同時代の映画をまとめてリサーチしておきたいと思っています。
ささきゆうすけ @sasakiyusuke
『暇と退屈の〜』は未読なのですが、郊外論や宮台さんの著作から考えてきたのは「人類の遊動、移住の歴史」が可能なのは物理的な土地以外に「住まう場所」があってこそなのではないか、ということでした。帰属する場所、と言い代えることもできる。
ささきゆうすけ @sasakiyusuke
人は必ず「住まう場所」を必要とする→けれどもそれは必ずしも物理的な「土地」である必要はない。共同体や情報空間という場所もあり得る。→けれども流動性に満ちた現在、物理的な「土地」は相対的に「住まう場所」としての信頼度が高く、再評価するべきでは→拡張現実への期待
ささきゆうすけ @sasakiyusuke
そういう流れで考えてきたけれど、現実には今の日本では、物理的な「土地」に定住すること、同じ場所にずっと住み続けることが困難だという状況があって、それをどうすれば良いのだろうと考えているところ。
ささきゆうすけ @sasakiyusuke
自分が郊外をテーマとしてやろうとしていること、映画に対してやろうとしていること、それはどちらも突き詰めるとゾーニングの問題と流動性の問題に行き着く。

コメント

ワクテカ @rewktk 2012年5月15日
togetterでまとめました。「《盆踊り2.0》のまとめ part1-ディアスポラ・郊外・プリキュアー」
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