明治大正昭和初期の農民の理想と現実

タイトルどうりの話を、不時ッコ@bukrd405 さんの連ツイから
9
@bukrd405

明治・大正・昭和前期の農民が望んだ生き方には一定のパターン、すなわち「生涯の過ごし方の型」があった。それは次のようである。 (1)小学校入学前 祖父母に面倒を見てもらう。 (2)小学生 学校及び集落単位でまとまった小学生の集団(少年団など)が生活の中心。

2012-05-28 05:04:08
@bukrd405

(3)青年時代 若衆組・青年会に加入。 (4)徴兵検査 合格した者は、その年の暮れごろに入隊し、2年間軍隊生活。 (5)結婚 (6)親の隠居(跡取りが25歳、親が50歳ごろ) 農家の跡取りが結婚し、やがて子供が生まれる頃になると、親は隠居する。

2012-05-28 05:07:09
@bukrd405

正確には、息子夫婦が農業労働の中心になるというべきで、財布は親が握っている場合が多く、家政についても親の指図に従って息子夫婦が動く形であった。とはいっても、もはや親夫婦は、中心から外れている隠居であり、ふだんは孫の子守をしながら日向ぼっこ、といった生活になる。 

2012-05-28 05:08:50
@bukrd405

(7)死亡(おおよそ60代の後半くらい) 以上をまとめると「若いときは一生懸命働き、老人になったら楽隠居をして、孫にかこまれて日向ぼっこ」というのが、農家に生きる人々の理想的な生涯の過ごし方であった。とはいえ、このような「楽隠居」ができる人は限られていた。

2012-05-28 05:11:27
@bukrd405

一つには人口学的制約があった。戦前には、小学生になる前に4分の1が世を去った。生き残った人々はおおむね次の青年時代(数えの15歳から)に進むことができるとはいえ、自分の結婚や親の隠居がほぼ完了する30歳までに35%前後が亡くなってしまう。

2012-05-28 05:14:17
@bukrd405

そして、いよいよ自らが楽隠居に入ろうとする50歳までに全体の5割近くが失われてしまう。「楽隠居」実現のためには、親と跡取りいずれもが一定年齢まで生存することが条件となるが、それはなかなか容易ではなかったのである。

2012-05-28 05:15:34
@bukrd405

楽隠居の実現には、他にもいくつかの条件をみたさなくてはならない。もっとも重要なものは、経済的基礎としての家産を維持(できれば拡大)することであるが、明治以後自給自足から商業主義的農業へと転換しながら家産を維持することは容易ではなかった。

2012-05-28 05:17:36
@bukrd405

その流れのなかで家産を失い没落してしまった家も少なからず存在する。激しい農業労働に耐える強健な肉体と勤労精神、そして時代の流れに沿って農業内容を変えていく才覚が必要である。さらに跡取りが「才覚がありすぎた人」で、養蚕の経営を志したり、

2012-05-28 05:22:14
@bukrd405

(承前)無給の名誉職である村の役職を歴任するような場合や、頭が良すぎて上級学校に進んだりする場合にも、「家産の維持」に失敗しやすかった。先代から受け継いだものを確実に次代へ引き継ぐには、才覚がなさすぎてもありすぎてもいけないのである。「楽隠居」への道は容易ではなかった。

2012-05-28 05:24:08
@bukrd405

もとより、三世代が食うに困らぬほどの家産を持つ農家は少数派であり、「隠居」の後も働きづめで「楽」など望むべくもなかったのが当時の現実であった。それでも、壮年の荒波を乗り越えて次世代への引き継ぎを無事終えるという意味で、「隠居」は人生の一大目標であった。

2012-05-28 05:26:42
@bukrd405

「人外れに」長生きすることは、「人外れに」早死にすることと同じく、その時代の人々が心に描いていたライフサイクルから「外れて」しまうことを意味する。その結果、思いもよらない経験をすることになる。

2012-05-28 05:43:41
@bukrd405

例えば、子供のライフサイクルが自分のライフサイクルに追いつき、追い越してしまうこともある。「人外れに」長生きする人生には幾多の「逆縁」がつきまとうが、夭折の多かった戦前ならばなおさらであった。

2012-05-28 05:46:09
@bukrd405

また、「一番めでたいことは『親死ね子死ね孫死ね』と順当にいくこと」という一休の教えの背景には、生活基盤である家産がきちんと継承・維持されてこそ個人の幸福があるという考え方がある。家産の維持には、数世代にわたってライフサイクルが規則正しく連結されていくことが肝要であるが、

2012-05-28 05:48:26
@bukrd405

(承前)「人外れ」の早死にはいうまでもなく、「人外れ」の長生きもまたその規則性をおびやかすと考えられていたのかもしれない。「相当の頃で死ぬ」ことにはそれ相当の意味があったのだろう。戦前には、夭折する者が多く、70歳まで生きる者は全体の3分の1にも満たなかった。

2012-05-28 05:51:51
@bukrd405

人生は不確実なものであり、それゆえに人々のライフコースは実にさまざまであった。にもかかわらず、人々は一定のライフサイクルを理想の型として心に刻み、その時刻表どおりに齢を重ねようと努めた。そして、跡取りへの引き継ぎを果たしたのち、

2012-05-28 05:55:03
@bukrd405

(承前)、「相当の頃に死ぬ」ことをもって世代の連結器としての役割を終えると考えていたようである。この時代、人々の生と死は、世代を超えてつながっていく共同体の浮沈と分かちがたく結びついていたのである。

2012-05-28 05:57:22
@bukrd405

前近代社会における老人の生き方を語る際にしばしば言及されるのは、「姥捨伝説」である。これは、「相当の頃に死ぬ」という暗黙の掟を、極限化された形で表現したものといえよう。これを題材とした深沢七郎の小説『楢山節考』は、共同体とのつながりの中にのみ個人が意味を持つ世界を描き出している。

2012-05-28 06:04:22
@bukrd405

深沢が掘り起こしてみせたのは、「閉ざされた世界が存続していくためには、その世界を構成している人間が、しきたりとほんねを一致させ、自己に与えられた運命を受け止めて義務をはたし、やがてきめられた年が来たら、

2012-05-28 06:07:20
@bukrd405

(承前)いままでふさいでいた場所を次の世代に開け渡すために、楢山に行ってくれなければ困る」世界であった。これは確かに極限化された世界ではある。しかし、「一番めでたいことは『親死ね子死ね孫死ね』と順当にいくこと」との教えは、このような世界の原理に根ざしている。

2012-05-28 06:08:53
@bukrd405

@jonathanohn まとめありがとうございます。この情報ソースは、『大正期の家庭生活』(湯沢 雍彦、クレス出版)です。http://t.co/wpMTUv9o

2012-05-28 11:46:30