- toshihiro36
- 8812
- 1
- 1
- 8
齋藤:あまり余計なことは考えなかったですね。本当に考えたらダメだってこともあったし、余裕もなかったし。今やれることで、やらなきゃいけないことってないですか。カルテですよね、はっきり言って。カルテがないと、どうにもしようがないですからね。
2012-06-03 16:20:47<ナレーション> 探し続けた母の身元は4月下旬、くしくも仲間の歯科医が確定してくれた。被災した医院を取り壊した今、診療室に残っていたカルテは間借りする倉庫で保管している。 閖上にあったもう一つの歯科医院は全壊、カルテも流された。
2012-06-03 16:26:32<ナレーション> 歯科医師による身元確認は、1年経った今も続いている。新たに発見される遺体は次第に減っていった。2000人の歯科医師たちが作成したデンタルチャートは、およそ5000枚に及んだ。あの日以来毎日だった県警での照合作業は、昨年6月以降週3回になった。
2012-06-03 16:33:15<ナレーション> 警察や家族から行方不明者の生前カルテが新たに届くことがある。DNA鑑定の結果と合わせての、歯による照合が今も欠かせない。
2012-06-03 16:35:59江澤:いつまでやったら終わりだという話は誰もしませんね。そういうことを考えていないですね。「よく続くな」と言われますけど、やめる理由がないですよね。資料が続く限り。だって子供さんが見つからなかったら次の生活になりませんよ、親御さんは。それは、やらなきゃいけないんじゃないですか。
2012-06-03 16:40:10<ナレーション>最後の一人が見つかるまで。たくさんの患者を亡くした、石巻の三宅歯科医院。院長の三宅さんはあの日以来、行方不明となったすべての患者もカルテをいつもカバンに入れていた。長く通っていた患者の一人新田弥子さん。震災後行方不明だったが3カ月後検死という悲しい再会をはたした。
2012-06-03 16:46:46<ナレーション> 中学の同級生だった息子が、母の行方をずっと探していたのも知っていた。新田将人さん、母はこの町で一人暮らしていた。3月、いなくなった母を探して街中の避難所を何十か所も回った。
2012-06-03 16:50:49新田:そんな大したことはないだろうって、心のどこかで思ってたんですけど。ここを降りて、ああもうダメだなって...。 1カ月過ぎたころからは、もう覚悟してましたけど。ただ、どこにいるの?って感じで。
2012-06-03 16:53:48<ナレーション> 4月、それでも眠れない日が続いた。母が見つかったのは、3カ月を過ぎた6月下旬。自宅に積み上がった瓦礫の下からだった。
2012-06-03 16:57:05三宅:「見つかったから、頼む」と言われて、私もすぐ家に行きまして。新田君のお母さんのカルテも持ってまして、すぐに検死して。でもカルテなんて見なくてもわかるんですよ。
2012-06-03 17:00:40<ナレーション> 弥子さんは息子の同級生を応援しようと、三宅歯科に通い始めた。開業以来の患者だった彼女は、いつの間にか三宅さんに何でも話すようになっていた。なかなか結婚しない息子の愚痴も何度も聞かされた。
2012-06-03 17:08:59三宅:近所のおばちゃんみたいな新田のお母さんが、すごいカラカラした人で。治療が終わっても、すごいいっぱいお話しして。逆に私が他の患者さんを看れなくなるぐらい、ずっとお話しされてまして。息子のことが心配なんだと思うんですけども、三宅君から言ってくれないみたいなことはありましたね。
2012-06-03 17:14:43三宅:一枚の紙なんですけども、その紙の中にその人の生きてきた証がいっぱい詰まっているわけで。それは患者さんと歯科医師との信頼関係の証でもあるんで…最後って言ったらあれですけど、本人であることを証明できたのも…最後の最後まで私が看れてよかったと、最近は思えるようになってきまして。
2012-06-03 17:22:47<ナレーション> 1周忌を終えた4月、母の長いは叶えられた。 東日本大震災…犠牲者たちの多くが、歯科医師たちによって名前を取り戻した。5月、真新しい三宅歯科が完成した。引越し先に選んだのは、被災した診療所のすぐ近く。ここも、あの日津波が押し寄せた場所だった。
2012-06-03 17:28:06<ナレーション> 明日からも、この町の歯医者として生きていく。 宮城県では今も200を超える身元の判明しない遺体が、名前を取り戻せずにいる。
2012-06-03 17:30:25