山本七平botまとめ/『秩序としての下克上』/~「下克上的」平等とその”安全弁”としての天皇~

山本七平著『山本七平の日本の歴史(上)』/天皇製造人と下克上/246頁以降より抜粋引用。
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山本七平bot @yamamoto7hei

1】【キング・メーカー(?)としての尊氏】「キング・メーカー」に相当する日本語はないように思われるので、一応「国王製造人」としておく。<『山本七平の日本の歴史』

2012-06-02 12:26:49
山本七平bot @yamamoto7hei

2】この国王製造人は、シェークスピア劇にも登場するし、ローマ時代にもいたし、中国にもいた。~略~従ってこういう国々には、皆「紫衣せられた」という言葉もしくはそれに相当する言葉がある。だがこれに相当する日本語もなかったように思われる。

2012-06-02 12:56:42
山本七平bot @yamamoto7hei

3】言葉がなかったという事は、その世界にそれに相応する考え方がなかったという事だが、これは「全般的には」ないので「その言葉によって意志や考え方の疎通を図る事」がありえなかった、というだけであって、個々の人を探ってみれば「天皇製造人」という考え方は明確に存在しているのである。

2012-06-02 13:26:37
山本七平bot @yamamoto7hei

4】では一体、誰が「天皇製造人」即ち後期天皇制を作りあげた「その人」なのであろう。新井白石はこれを足利尊氏と見る。彼によれば足利尊氏こそ白石の時代まで続いていた天皇制を作りあげたその人なのである。

2012-06-02 13:56:49
山本七平bot @yamamoto7hei

5】面白いことに、足利尊氏の登場は西欧では英仏百年戦争の問始期とほぼ同じで、イギリスでも同戦役とそれにつづく「ばら戦争」の間に多くの国王製造人たちが活躍している。また中国を見れば、それより少し前の南宋末に、これまた多くの国王製造人が活躍している。

2012-06-02 14:27:30
山本七平bot @yamamoto7hei

6】それはまた多くの国々では「紫の衣は血の衣への第一歩」「一段高い座(王座)はさらに高い座(死刑台)への第一歩」である時代でもあった。では尊氏は中国の国王製造人たちの思想と行動に影響されたのであろうか、これは興味深い問題である。

2012-06-02 14:56:51
山本七平bot @yamamoto7hei

7】過去のある歴史家は、彼を、中国思想の悪影響をうけ、日本の伝統を忘れた逆臣と定義している。もちろんこういった見方は無意味であろうが、彼の思想と行動に中国の影響が皆無であったか否かとなると、これは非常にわかりにくい問題であろう。

2012-06-02 15:27:36
山本七平bot @yamamoto7hei

8】東国の武士団には、実朝の渡宋計画に見られるように非常に奇妙な中国憧憬があったことは事実である。しかしこれは恐らく彼らに潜在する京都への文化的な劣等感が逆に、京都を跳び越した中国憧憬という形になったと見るべきで、それが彼らの思想・行動の基準となったとは見るべきではあるまい。

2012-06-02 15:56:55
山本七平bot @yamamoto7hei

9】言うまでもなく尊氏の行き方には、それに先行する模範的原型ともいうべきものが、あった筈である。そしてそれは鎌倉幕府以外にありえない。~略~京都という中央政界に現われるまでの彼は『神皇正統記』のやや皮肉な記述によれば、その出身は「~略~ひさしき家人…」にすぎなかった。

2012-06-02 16:27:02
山本七平bot @yamamoto7hei

10】従って尊氏が自己の行き方に先例を求めるとすれば、それは鎌倉幕府でしかない。そしてこの幕府こそ実朝の死以降は一貫して「将軍製造人」であった。天皇製造人が出現する前に「将軍製造人」がおり、彼が考えた幕府・朝廷の関係は恐らく「北条家の幕府」と「製造された将軍」との関係であったろう

2012-06-02 16:56:45
山本七平bot @yamamoto7hei

11】製造人はあくまでも製造人であって、本人自らが製造された「もの」になるのではない。この場合、製造人は、日本であれ中国であれ西欧であれ、まず製造すべきものの素材の吟味からはじめるのは当然である。

2012-06-02 17:26:41
山本七平bot @yamamoto7hei

12】鎌倉幕府の「将軍製造人」は、将軍を製造するにあたって、その候補者をさまざまな点から吟味し、最も適格なものを選んだのは当然であった。天皇の製造人としての尊氏も、同じような態度をとったことは、当然であった。

2012-06-02 17:57:02
山本七平bot @yamamoto7hei

13】南北朝の争いは、その実態は武士団相互の土地争いであって、南朝といい北朝といっても、ただ土地取得のため彼らが掲げた旗幟にすぎない、という解説は、では、なぜ後期天皇制が創立されたかという問の解答にはならない。

2012-06-02 18:26:42
山本七平bot @yamamoto7hei

14】当時の武士たちの言動から考えれば、武士団が自らの手で天皇制を廃止したとて、それは少しも不思議でなく、世界の多くの歴史を見れば、通常、それが普通の帰結のはずである。

2012-06-02 18:56:57
山本七平bot @yamamoto7hei

15】それがむしろ逆になり「足利殿みずからの為にたて置きまいらせらせし所にて、まさしき皇統とも申しがたければ」といわれないために、南北朝合併という形をとって逆に後期天皇制確立へと進んで行った理由は、どこに求めるべきであろうか。

2012-06-02 19:26:37
山本七平bot @yamamoto7hei

16】そこには天皇制の存続を当然の前提とする、不知不識の全日本人的合意があった、と見るべきであろう。そしてその合意の別の現われ方を私は「下剋上」と見る。天皇制と下剋上は一つの共通意識の表と裏であろう。そしてこの意識は他の国々の「国王製造人」の意識とは非常に違うように私は思う。

2012-06-02 19:56:49
山本七平bot @yamamoto7hei

17】白石はもちろんこの違いについては何も触れていない。だが少なくとも彼は、後期天皇制を「造られたもの」と規定し「天皇製造人」という言葉は使わなかったにせよ、そういう言葉で表わした同じ意味内容の記述をしている。

2012-06-02 20:26:46
山本七平bot @yamamoto7hei

18】しかしこういった分析とそれに基づく探究は、彼の後、さらにその方向へと進められることなく終った。いわば後の皇国史観の基本となる考え方が支配的になり、それは天皇制を「造られたもの」と規定せずに、後期天皇制をも神話時代まで遡らせてしまって、この探究を打ち切らせてしまった。

2012-06-02 20:57:31
山本七平bot @yamamoto7hei

19】この点は戦後になっても同じで、これの裏が出て――いわば「裏返し皇国史観」となってしまった。それは #本多勝一 氏のように、天皇制とニューギニア高地人を対比するという結果まで招いたわけである。

2012-06-02 21:26:54
山本七平bot @yamamoto7hei

20】この考え方の背後に、天皇制は、神話時代=未開時代から一系相承でつづいて来たものという皇国史観の前提があることは言うまでもない。これは恐るべき無知というべきであろう。~略~しかしいずれにせよ、後期天皇制とニューギニア高地人の間にはあらゆる面で関連性は認められないであろう。

2012-06-02 21:56:49
山本七平bot @yamamoto7hei

21】それを無造作に関連づける事は結局、何の疑いもなく後期天皇制を神話時代=未開時代へ遡行させているにすぎず、それは結局前述のように裏返しの皇国史観にすぎないわけだが、こういう謬見(註:間違った見解)を排して、白石の見方を起点とすれば、そこに当然、次の問題が出てくる筈である。

2012-06-02 22:26:42
山本七平bot @yamamoto7hei

22】すなわち、天皇制は足利尊氏が創った――という白石の見方が正しいなら、私は正しいと思うが、天皇制を探究するにあたって、この「天皇製造人」の思想と行動およびその底にあった意識の研究が第一に来る筈である。これを無視した天皇制論議は、それ自体が無意昧であろう。

2012-06-02 22:57:34
山本七平bot @yamamoto7hei

23】そして第二に、作られるものの素材が探究されねばならず、第三に、その二つの作用から造り出されるものの祖型が何であったかが探究されねばならないであろう。~略~ここで、天皇制を「製造した」最も大きな要因、すなわち「下剋上」へと進まねばならない。

2012-06-02 23:27:22
山本七平bot @yamamoto7hei

1】【秩序としての「下剋上」】下剋上という考え方は言うまでもなく、上下という関係を前提にしない限り出てこない。下剋上と共和制とは全く相いれない考え方であると共に、下剋上と革命もまた相いれないであろう。<『山本七平の日本の歴史』

2012-06-02 23:57:08
山本七平bot @yamamoto7hei

2】天皇制は下剋上がなければ存続しえないし、下剋上は天皇制もしくは天皇思想なしでは存立しえない。

2012-06-03 00:26:32