山本七平botまとめ/「教育勅語=儒教的イデオロギー」対「明治憲法=西欧的制限君主制」の”相剋の歴史”であった近代天皇制

山本七平著『存亡の条件――日本文化の伝統と変容――』/第三章 指導者とその時代/天皇制の運用と効果/103頁以降より抜粋引用。
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山本七平bot @yamamoto7hei
①【天皇制の運用と効果】古い時代のことはさておき、天皇制を近代に限定するなら、これは1867年の大政奉還(10月14日)、王政復古宣言(12月9日)以降のことであるから、約百年の歴史をもつにすぎない。<『存亡の条件』
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②同時代の世界の主な事件を拾ってみるなら、太平軍の南京占領(1864年)、南北戦争終了、リンカーン暗殺、奴隷廃止宣言(1865年)、フランス軍のカンボジア占領(1867年)、ディズレーリ内閣成立(1868年)、イギリス全国労働組合会議結成(1868年)、(続
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③続>ドイツ社会民主労働党結成(1869年)、ニューヨークで恐慌発生(黒い金曜日・1869年)等があり、いわば、20世紀への胎動期である。 そして、良かれ悪しかれ、われわれはこの時代を、尊皇思想の一つの具体的成果をもってはじめたわけである。
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④いうまでもなく、近代天皇制の成立そのものには、前記の諸事件に見られるような、西欧の近代化とそれに基づく諸思想の影響は見られず、もちろん西欧古典思想とその成果にも関係なく、朱子学の正統思想の日本的変形を基盤としている。
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⑤確かに幕藩体制(これは厳密な意味ですでに封建制度とはいえない)は崩壊期に入っており、また、急激な改革期はいずれの形態をとるにせよ、一種の強力な集中的権力を要請するとはいえ、それらはそれだけの理由では近代天皇制へと移行した必然性を説明し得ない。
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⑥西欧的な過程をそのままたどるなら、むしろ、将軍に権力が集中していき、諸侯が一種の上院を構成する文字通りの幕府藩閥政体となっても不思議でなかった。 幕府の動きは一応この方向に向かっている。 一方、当時の朝廷それ自体には、統治能力も行政能力もなく、もちろん軍事力もなかった。
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⑦従ってこの時期に、幕府でも薩長でもなく、「天皇」を政治的権力の中枢に置いたものは尊皇思想であって、それ以外にその理由を求めることはできない。 そしてこの尊皇思想は民衆にまで浸透し、その運動には民衆まで参加している。
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⑧従って、それによって成立した国家は、たとえ政策はどう変更しようと(一例にすぎないが、攘夷から開港に一転しようと)そのイデオロギー的基盤を前記の思想に求めざるを得ず、その思想を一つの実践要綱として要約したものが『教育勅語』であろう。
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⑨これが「外装的」明治憲法と併行する、否、明治憲法以上の力をもつ強力な規範、 「思考の枠組と政権の基礎」をなす「先祖の律法」の集約化であったことは否定できない。 何しろ明治維新という革命を実行し得た指導原理だから。
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①では『教育勅語』とは何なのか、 これについて台湾人林景明氏から面白い話を聞いた。 氏の父君は小学校の教頭(校長は必ず日本人で、教頭はいわば台湾人の最高位。ただし校長は転任するので実質的には校長であったという)で、いわゆる皇民化教育を率先して行った人であった。<『存亡の条件』
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②日本人から見れば、まことに頼もしくかつ信頼できる現地の協力者だったわけである。 氏は朝に夕に『教育勅語』を奉読していたが、常に家族を 「日本人でさえ、これだけのことを言えるようになったんだぞ」 という形で訓戒していたという。
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③中国人の目から見れば、『教育勅語』は儒教を基本とする一つの道徳律である。 そして日本人はかつて、「東夷」であり「化外の民」であった。 その化外の民、いわば蕃族にもやっと中国の教化が及び、そこの皇帝が、このようなりっばな勅語を出せるまでに進化した。
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④彼らですら、これだけのことを言っている。 まして、われわれにおいておや。 中国人であるわれわれが、自らの伝統の履行において、彼ら(日本人)に劣ってよいであろうか。 みな朝夕これを読んで、自戒するように―― ということであったという。
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⑤同氏の学生への『勅語』論義は、表現に差はあっても、基本的には同趣旨であったろう。 中国人なら、こういう受けとり方以外はできまい。 だが、当時も今も、天皇制を支えた支柱の一つである『教育勅語』を、このような観点から見たものはいないと思う。
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⑥そして第二次大戦直後、日本人はこれに規定される道徳律を「封建的」という名で否定した。 しかし、正しくは、この語は 「儒教的規範、特にその中の家という思想とそれに基づく体制」 の意味である。
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⑦だが、それならばこの「家」および「家の思想」からの「個人の解放」は、明治末期から常に文学の主題であった。 したがって「戦後の特徴」とはいえない。
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⑧「家がなくなったら(戦前の)日本文学の主題はなくなってしまう」 と佐古純一郎氏がいわれたが、問題は「家そのもの」よりも、これに象徴される儒教的社会規範とその奥にある尊皇思想との抗争と、それからの脱却だったはずである。
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⑨ただ政府は一貫してこの問題に目をつぶる以外になかった。 というのはここに、明治政府のもつ基本的矛盾があったからである。 昭和になっても『教育勅語』が存在するから「わが国には思想問題は存在しません」という珍答弁を政府が議会で行い、この問題は徹底的に避けていた。
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⑩なぜそうなったか。 権力の基盤を儒教的イデオロギーの絶対化に置く。 そしてこれによって確立した絶対的権力によって、西欧化を極力能率的に推進する、 この矛盾した行き方が明治の基本的態度だったからである。
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⑪明治はその正の面が最も効率的に発揮された時期、 一方、昭和前期はその内包する矛盾があらゆる面で負へと噴出した時期、 大正が一種の短い両者の平衡的時期といえるであろう。
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⑫そしてこの矛盾は、象徴的に見るならば「教育勅語=儒教的イデオロギー」と「明治憲法=西欧的制限君主制」という、相いれないものを共に絶対化して併存させていたという点に現れている。

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