今日、沖縄のシャーマン的な女性(以下、シャーマン)のビデオを見ていたのだが(詩歌研究の講義で)、その中でシャーマンが呪文のようなものを膝を叩きながら唱えて、そのうち悩みを持って訪れた女性が震えて喚き始めた。
2010-06-26 00:11:54どうやらその周辺では、女性が神経が鋭いことが多いらしく、訪れた彼女もその類の人で、シャーマンもかつては彼女と同じような境遇だったらしいが、呪文を唱えながら、彼女に何らかの影響を与えて、そこから霊(彼女の祖父だったはず)を降臨させた。見ている限り、フィクションっぽくなかった。
2010-06-26 00:13:46気になったのは、祭りを担う際、それまで観た映像から判断する限りにおいて、男性は神を演じることが多く、女性は神を宿すことが多かった。その違いははたして何なのか。男性が神を演じる場合、彼もまた呪文(神の言葉)を唱えるわけなのだが、それは女性が神を宿す際の呪文とは、何が違うのか。
2010-06-26 00:16:36で、一つの思いつきとして、彼の言葉は世界との関わりを志向するものとして、言葉がメディアとして機能している。言葉を媒介して、彼(神)と世界とが接合することを志向する。故に、彼は神でなければならなかった。反対に、彼女の言葉は、彼女の身体を媒介して神を宿すための、呪い(魔術)であった。
2010-06-26 00:19:50前者は、言葉が呪性として直接的に世界(神)に働きかけるものであり、後者は呪性としての言葉を発することで身体が世界を媒介する。という風に、直感的に考えたが、非常に乱雑になった。
2010-06-26 00:23:33詩のモデルというのは、ではどこから来たのかというと、私は前者からだと思う。というのは、後者のモデルだとあまりに自己救済的すぎるからで、それは内面を待たねばならないのではないかと思うからで、前者の場合はルカーチの言うところの「総体性」をそこに当てはめても、可能ではないかと。
2010-06-26 00:32:50不気味なのは後者のモデルで、つまりは女性(的だと私は思うのだが実際は違うかもしれない)の持つ「巫女」的、メディア的身体のありようで、そのときに言葉は実体を持ち始め、身体を媒介して世界と通じ始める。もちろん最初の「言葉」には、「身体→言葉」という経緯が(潜在的に)あるはずなのだが。
2010-06-26 00:38:20私のよく知る言葉の呪性は前者のモデルを敷衍した形(或いはそのまんま)であるはずなのだが、私のよく知らない言葉の呪性は確実に後者であり、その後者のありようというのは、例えば占いだったりある種のオカルト的なものだったり宗教や神秘体験だったりするのだろう、というのが私の直感。
2010-06-26 00:42:58で、結局のところ――である。なぜ女性なのか。私には映像の中で、喜怒哀楽すべての感情を混交させて、どう言い表せばいいのか分からないが、「狂気」を垣間見せた若い女性の姿があまりに印象的で、それは男性には可能であるのか、可能であるとすればいかようにすれば可能なのか、と考えてしまった。
2010-06-26 00:46:02男性は、ひょっとすると神(「狂気」)に擬すことしかできないのではないのか。しかし、それはないだろうと思ったのは、修行僧の存在で、彼らは男性でありながら、「巫」的、メディア的身体を獲得していったはずだ。だとすれば、そこに何が生じているのか。それが不立文字に繋がってくるだろう、と。
2010-06-26 00:49:17先日の日記で私は不立文字を言葉の呪性から逃れる方法の一つとしてあげたと思うが、それは微妙な点で間違っていて、前者における言葉の呪性から逃れる方法であったのだ。つまり、そこにあるのは後者の、言葉の呪性ではないのか。
2010-06-26 00:52:43