自分の手が自分のじゃないみたいに震えた。手に伝わる感触がとても怖い。さくり。とても浅いけど、枯れた木みたいなぞんびの首にガラスの先が埋まった。「ひ…っ!」どうしてこんなボロボロの手を引き剥がせないんだろう。俺を見つめる子ゾンビはピクリとも動かない
2012-06-21 03:33:48「…だ、やだ…いやだよ…何で、俺が…」俺が。その先は口に出すのがしんどくて、俺には無理だ。怖くて、頭がぐるぐるして、涙がじわりと溢れてくる。見下ろした子ゾンビのほっぺたに雫が落ちた。「俺の言葉わかるんだろ?だったらやめてよ…!放せよ!」何で俺が、お前を○さなくちゃいけないの
2012-06-21 03:42:05きっとこいつは、○にたいんだ。ずっと俺は、ゾンビには感情なんて無いんだって思ってた。でもこいつに会って変わった。耳が聞こえて人の言葉がわかって喋れて。嬉しそうにしたり悲しそうだったり、ほんとになんとなくだけどそんな気がして。腐ってて心臓も止まってるゾンビだけど、こいつは
2012-06-21 03:46:47「…う、うっ…」ぼろぼろと落ちた俺の涙が白い目に膜を作る。こいつだって、俺と変わらない、元は同じ人間だったはずなんだ。外に放置は嫌だし、一人は怖いよな。俺だって、そんなの嫌だ。「…お前っ…○にたいの…?」手に込められた力が緩んで、子ゾンビはゆっくりと首を揺らす
2012-06-21 03:53:03首にあいた穴が広がる。ぎしぎしと裂けるのに、痛がりもしないで。子ゾンビは、頭を上げて、壁のほうをじっと見つめた。「…あ…」鳴り響くサイレン。シェルターのほうを向いたままの顔から土のようなかけらが零れ落ちる。「お前…馬鹿じゃないの…?はは…ゾンビの、くせに…」
2012-06-21 03:57:37本当になんて馬鹿なんだろう。軽い気持ちで俺が手を出さなければ、こいつは他の誰かの家で幸せに飼われてたかもしれなかった。馬鹿だ、俺は。「俺が…悪いんじゃん…もしお前が凶暴化したって、このままシェルターに戻らずにゾンビに襲われたって…自業自得だろ…?」
2012-06-21 04:02:28なんで俺なんかに優しくするんだよ。「エ"ウ"エエ"ェッ」もう一度地面に頭を転がした子ゾンビは、俺の手を握る手に力を入れた。力の抜けた俺の手を、今にも折れそうな手が強く押す。穴ぼこだらけの喉に深く刺さるのは、とても簡単だった。「……っ!」時間がとまったみたいに。
2012-06-21 04:10:26「あ…あ、」わかってる。ゾンビはこれくらいじゃ死ねないって。けど子ゾンビは、俺と合わせていたまぶたを、ゆっくりと閉じた。まだ理科でゾンビを習っていないから、ゾンビの身体の仕組みは詳しく知らない。でもゾンビにまばたきが必要無いのは知ってる。
2012-06-21 04:13:31まるで寝てるみたいに横たわってる。こいつが言いたいこと、わかってしまったんだ。優しくて、本当に、馬鹿なゾンビ。さあもう大丈夫、深く突き刺せたんだから、もう躊躇なく○せるでしょう?そんな声聞こえるわけがないのに。目を閉じてる無表情の顔が、俺にはなんだかとても嬉しそうに見えたんだ。
2012-06-21 04:18:09泣きながら何度も刺した。あれだけ強い力で俺を握ってた子ゾンビの手は、崩れて地面に落ちた拍子に砂になった。雨に濡れて膨らんだ肉からわいたにおい。このにおいを、俺は一生忘れないんだろう。こいつの半分の半分くらいでも、俺は優しくなれたんだろうか。
2012-06-21 04:24:54「どうしたの!?」気付けばサイレンは止んでいた。どうやら日が暮れるまでにシェルターに帰れなかったらしい。街の途中にある克明の家の玄関で、俺はぐしゃぐしゃの格好で座り込んでいた。俺の手を見た克明のお母さんが、慌てて中にひっこんでった。
2012-06-21 04:30:17とてもくさいと思う。頭の先から足のつま先まで、不思議な色に染まった自分が鏡に映ってた。手に握ったままだったんだろう、ガラスを床に落とすと、次第に手から雫が滴った。克明のお母さんにお風呂に連れて行かれて、暖かい部屋でタオルにくるまって手当てをされた
2012-06-21 04:33:18借りた電話の受話器から聞こえる親父の怒鳴り声やお母さんの泣き声、ごめんなさい、何も感じられない。克明のお母さんが代わってくれて「いいのよ。あなたは今夜克明の部屋で眠りなさい」と背中を押された。俺が辿り着けないと思ったのか、いつもの弱気な笑顔をみせた克明が手を引いてくれた
2012-06-21 04:38:44「今はね、念のために特殊なケージの中で眠ってるんだ」檻で眠るゾンビを見ながら、可愛いでしょ?と克明は笑った。それを横目に見ながら、ソファに座る。「ゾンビを○した」しばらく克明の独り言を聞いていた俺は唐突にぽつりと呟いた。「え…」「握ってたガラス。あれで○した」「襲われ、たの?」
2012-06-21 04:43:00子ゾンビは、俺を襲ったりしなかった。あいつは俺がシェルターに無事帰れるように、自分が俺を攻撃しないように、俺に○させたんだ。動けないあいつを俺は何度も。「…し、仕方ないよ…だって、○されそうだったんでしょ?」違う。「う、うちのは血統書付きだけど、野良は怖いもんね…」違う。
2012-06-21 04:47:44「ゾンビって…ワクチン打たないと凶暴だしさ、死んでるし…誰にでも襲いかかるし…何も考えてないもん…ね?」もし。もしそうだったら、○していいのか?あいつらだって好きでゾンビになったんじゃない。きっと一度○ぬ時だって、すごくすごく怖かったはずなのに。
2012-06-21 04:50:37「…俺ね、お前がゾンビのこと…家族だって言ってたの、なんとなくわかった」「…そ、そうかな?」「うん…ははは…」突然笑い出した俺を見て克明は変な顔でにやけてた。「克明、俺がゾンビを○した話は、秘密にしよう?」「そ、そうだね。法律違反は、バレちゃ駄目だもんね」「二人の秘密だからな」
2012-06-21 04:59:11どうせ証拠なんて何も残ってない。あんな所には誰も行かないし、粉々になった子ゾンビの欠片は風でけっこう飛んでいっちゃったから。ああ、なんて醜くて酷い生き物なんだろう。人間は。「俺のほうがずっと腐ってるよ、きっと…」「?何て?」「…ううん、なんでもない」
2012-06-21 05:06:13その夜、俺は夢を見た。昔の夢だ。法に触れる真実を、どうして叔母さんが僕に話してくれたのか。まだ幼かったあの日、俺はゾンビに助けられたんだ。まだ飼育が一般化してなかった頃、道端にいた野良ゾンビに優しくされた俺は、叔母さんに尋ねた
2012-06-21 05:09:43『ねえ、ぞんびはくさってるんでしょ?こころがないのにどうして、ぼくをたすけてくれたの?』そんな問いに、幼子にはわからないと思って叔母さんは言ったんだろう。元はゾンビも人間だった。身体のどこかに心があったのなら、きっと腐らないかぎり覚えているんだろう、と。
2012-06-21 05:16:19夢の中で見た俺を助けてくれたゾンビは、子ゾンビにとてもよく似ていた。その頃の俺よりも少し大きい子ゾンビにはまだ足がついていて、迷っていた俺の手を無表情で力強く握って、引いてくれてたんだ。俺のことを、ボロボロの身体のどこかで覚えていてくれたんだろうか
2012-06-21 05:20:11あの時はありがとうと、言ってあげればよかった。目を覚ました俺は、いつの間にか流れてた涙を手の甲でごしごしと拭う。その拍子に、遠慮がちに結ばれていた包帯が解けてゆるんだ。まだ赤い傷口からぱらぱらと。細かい灰色の粉が、高そうな絨毯の上に散らばった。 《完》
2012-06-21 05:28:51