扇動と自己表現の違い。 扇動は悪であるか否か。

@sid_a さんと @akihimono さんの「扇動」をテーマにしたお話。
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@sid_a

以前にポストした「2chのボスニア内戦体験談」その後。”「事実であろうとなかろうと本質が大事」と言ってしまったらデマの拡散は防げない” その通りですねあいたたた:『日本人少年の実体験? 話題を呼んだボスニア内戦体験記への反応』 http://bit.ly/bhhZbo

2010-07-01 09:20:13
@sid_a

ちなみに件の「体験談」がどの程度確からしいかについては、ついたことなしさんが割としっかりチェックしてくれていたはず。「当時、日本人小学生が長期間行方不明になっていて、それが報道記録に残っていないのは不自然」という視点。なるほどなーと思っていました。その時RTすればよかったね。

2010-07-01 09:23:20
@akinagara

@sid_a 本質とは何かの解釈次第でそれは正しくも詭弁にもなるような。「日本人少年がいた事実」と「虐殺があった事実」において、後者の事実は当時報道を追った人にとって確定済みの事実。それに対し確定しようのない前者の「事実」を無意味な枝葉と切り捨てることは、間違ってはいないかと。

2010-07-01 10:18:10
@akinagara

@sid_a あと「デマゴギー」の定義解釈の話ですが、こういった「真実を伝えるための嘘」はわりと文芸やアートとかに属する性質のものって気がしますね。対して普通「デマゴギー」と呼ばれるものは、真実を捩じ曲げて権力や政治的な意味で利用するための嘘、みたいなもののような気が。

2010-07-01 10:22:39
@akinagara

まあ要するにあの手の「作り話」を「デマ」と呼ぶのは個人的には抵抗があって、ぼくの印象では(オーディエンスを巻き込むといった意味で)現代的な、文芸作品、みたいな感じなのかなあとか。

2010-07-01 10:24:31
@sid_a

@akihimono 今回は虐殺の事実は報道のレベルでは「確認済み」で、例えばひものさんや僕はそれを知ってた訳ですが、世代的にその報道に触れてない人たちも多くいたのではないかと思います。そこで「うわあこんな悲惨なことが! 広めなきゃ!」って心の動きは、デマまではいかなくても(続く

2010-07-01 10:24:31
@sid_a

@akihimono 承前)容易に煽動と結びつくんじゃないかな、と思いました。確かに目的としてはデマゴギーではないんですが、手法(と、受け取る側の盛り上がり)は共通するものがあるな、と。あとは、自分自身の熱狂から距離を置こうとする姿勢がぶれたなー、という自戒の意味が大きいです。

2010-07-01 10:28:04
@akinagara

@sid_a 「煽動と結びつく」もしくは「煽動」そのものは、はたして生得的な「悪」だろうか、というわりと根本的な疑問があるわけですが、まあぼくはそういったところで変に楽観主義なのかもしれません。

2010-07-01 10:33:13
@sid_a

@akihimono なるほど。その視点は僕には無かったです<煽動は悪なのか。もちろん僕も、例えば今回の「体験談」を「あれはデマだ」と切り捨てるのは全然ダメだと思っています。それは祭り上げるのと向きが逆なだけで本質は同じというか。<煽動に対してすごい嫌悪感があるらしい

2010-07-01 10:38:45
@sid_a

まず『目的』があって、そのために大勢の人間を集めて盛り上げる、っていうのは『手段』に過ぎない……と思えば、ある種の煽動は正当化される?(水谷絵理風に) ……うーん、「目的は手段を正当化するか」プラス「煽動は自分の目的にとって『悪』の属性を持つか」っつー話か。

2010-07-01 10:44:38
@sid_a

まー僕はサヨクなので人間理性を信じちゃったりしてる訳ですよ。人工は自然に優越するという基本理念っつか。人工と自然の定義については突っ込まないで。で、『煽動』っていう方法論はもうダメなんですよね、アンチ理性っぷりが。政治がどうのじゃなくて、信念みたいなとこに抵触するのかな、という。

2010-07-01 10:51:28
@sid_a

サヨク云々は力の限り蛇足な気がするなあ。まあいいや。もうなんか、こう、時には勢いでこういうことを書く時もあるってことですよ。ぷきゅー。

2010-07-01 10:56:13
@akinagara

@sid_a 「デマゴギー」と「アートという名の嘘」があり、その後者の中にまた、その解釈をあくまで読者に委ねる「フィクション」と、作者のプロパガンダ、つまり読者の解釈を支配せんとする作者の意思があからさまな「アレゴリー」があって、例えばトールキンは後者を毛嫌いしていたとか。

2010-07-01 11:00:24
@akinagara

@sid_a 逆にジョージ・オーウェルなんか「全てのアートはプロパガンダだ」とまで言い切っていて、まー1984はともかく動物農場なんかはとくに、作中の「比喩」が現実の事象とそっくりすげ替え可能という意味であからさまな「アレゴリー」だったわけですが。

2010-07-01 11:03:47
@sid_a

@akihimono その分類はすごくよくわかります。ただ、「フィクション」として意図されたものの中に「アレゴリー」が混ざるのはそう珍しい話でもない気がしますし、くっきりと分類できるものではないようにも思います。どちらかというとトールキンよりはオーウェルの立場に近いかも。

2010-07-01 11:05:55
@sid_a

@akihimono そこで、じゃあ「プロパガンダいくない」って全部切り捨てちゃえれば僕も一貫性があってそれはそれで(僕の中では)めでたいんですが、そこまできれいにスパンと切れずにもだもだしてる訳です。ちょっと今みっともないかんじ。

2010-07-01 11:08:09
@akinagara

あ、ぼくは言うまでもなくオーウェル好きですけどね(笑

2010-07-01 11:08:14
@sid_a

結局さっきの『サヨク』の行き着く先は完璧な個人主義というか、「全部自分で考えろ。目に映るものは全部プロパガンダだ」っつー話になっちゃってね。いや確かにプロパガンダ成分ゼロのメッセージなんて無いんだけど、そこで「じゃあどうする」ってのが何も無いってのはあまりに頽廃じゃねえかと。

2010-07-01 11:11:29
@akinagara

@sid_a 話が前後しますが、スパンと切れないと言えば、視点を受け手/読者側に移した場合「煽動された」と「理性的な判断に基づき納得した」の違いも、実はわりと曖昧なのでは。主観的には皆(ぼくも含め)後者をやってるつもりではあるんでしょうけど(笑

2010-07-01 11:12:09
@akinagara

@sid_a 思うに、オーウェルが「全ての」と言い切ったのは、「表現する」ということの動機そのものが、「他者/外世界に影響を及ぼしたい」という広い意味での政治性(プロパガンダ性)と無縁ではありえないから、という意味合いもあるのではと思います。

2010-07-01 11:17:40
@sid_a

@akihimono ああ、それもそうなんですよね。理性で自己チェックをしてるつもりでも「理性でチェックしてる自分を理性でチェックしてる自分を(略) みたいな無限退行に陥る訳で。理性的判断ってやつを突き詰めると何も行動ができないという。どこかで打ち切らないといけないんですよね。

2010-07-01 11:17:42
@sid_a

@akihimono だからこそ、とりあえずどうにか妥協してる理性の判断をさらに削ってくるような「煽動」に対して僕はすごい嫌悪感を抱いてるのかな、という気がします。

2010-07-01 11:19:31
@sid_a

@akihimono オーウェルの言葉は、どこかで「個人的なことは政治的である」という言葉と通底する感じがします。昔のフェミニストの言葉らしいですけど原典が今出て来ない。政治的でなく何かを表現することはできない、というか。個人的にはそれもちょっとしんどいんですけど。

2010-07-01 11:23:02
@sid_a

「生きてる限り『政治』からは逃れられない」という観点から見ると、確かに「煽動=悪」って云っちゃうのもちょっとナイーヴに過ぎるかな、と思わないでもない。うーん。

2010-07-01 11:26:08
@akinagara

@sid_a 件の話については、シダさん的には、あからさまな「実話」アピールが鼻についたということですかね、明らかに読者を騙していた部分。(さもなくばマスアピールなどしない主題を)より多くの他者に届けようとするための手段としての「芸術」としても、そこはルール違反だろう、みたいな。

2010-07-01 11:33:11