- m_sanetomo
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大江殿が京都に…?! RT @m_sanetomo: 話は前後しますが、嵐山一帯には百人一首の歌碑が各所に建てられておりますので、いくつか紹介しますね。まずは阿倍仲麻呂の歌。http://t.co/KnJNYMHp http://t.co/t740cGUg
2012-05-19 18:10:07@choumei_bot これは長明殿、御無沙汰しております。旧友に会うため上洛した折、ついでにいくつか回って参りまして。賀茂社の方には行けなかったので残念でしたが。
2012-05-19 18:18:36こちらこそお久し振りです。是非とも次は、私の草庵にも遊びにきてくださいね。 RT @m_sanetomo: @choumei_bot これは長明殿、御無沙汰しております。旧友に会うため上洛した折、ついでにいくつか回って参りまして。賀茂社の方には行けなかったので残念でしたが。
2012-05-19 18:21:19@choumei_bot お誘いかたじけない。いつも洛中の散策のみで終わってしまい、なかなか日野まで足を運ぶ機会がないのですが、是非一度寄らせて頂きたいです。
2012-05-19 18:31:39方丈石あたりは私のにおいがプンプンする(by堀田善衛)ので、嗅ぎにきてくださいね(笑)では、実朝様によろしくお伝えください。 RT @m_sanetomo: @choumei_bot お誘いかたじけない。いつも洛中の散策のみで終わってしまい、なかなか日野まで足を運ぶ機会がないので
2012-05-19 18:42:30鴨長明(1155~1216)日本三大随筆の一つ「方丈記」の作者。
下鴨神社の禰宜の家に生まれるが、晩年に出家遁世。
後鳥羽院によって和歌所寄人に任ぜられ、歌人としても名を成した。
ちなみに広元が親しげに話しかけているのは、長明入道がかつて鎌倉に下向して私とも面会した経験があるためです。
申し訳ありません、いかんせん老体ですので少し疲れました故、続きはまた後ほどにさせてもらい一旦休みます。…明日になるかもしれませんが…。
2012-05-19 18:40:22僭越ながら、先ほどの続きを投稿させて頂きます。なお何処にどの歌の歌碑が建っているか知りたい方は、こちらを参照して下さいね。http://t.co/OgNPU8xy
2012-05-19 21:27:13@m_sanetomo ◎年前に行った時と変わらない光景。懐かしい~。写真ありがとうございます♪鎌倉も京都も、変わらない事が嬉しいです。
2012-05-19 21:41:11こちらは常寂光寺です。寺の創建は安土桃山時代ですが、藤原定家卿の山荘「時雨亭」があった場所と伝わる地としても有名ですね。http://t.co/Wkk0fGtW
2012-05-19 21:36:25時雨亭・・・藤原定家が小倉山の麓に営んでいた山荘。
小倉百人一首を選んだ場所として有名。
なお時雨亭の跡地としては、同じく嵐山にある二尊院や厭離庵も候補地とされている。
境内の最奥にある、歌仙祠と時雨亭址の碑です。定家卿と家隆卿を祀っている建物だそうです。http://t.co/pFeC5cTV http://t.co/h8Ym1xaL
2012-05-19 21:42:09藤原家隆(1158~1237)鎌倉時代初期の歌人。
藤原俊成に歌を学び、同門の定家や寂蓮と共に並び称された。
後鳥羽院が隠岐に流された後も、歌を送るなど交流を持ち続けたことでも知られる。
百人一首では98番に入選。
紅葉の時期の光景はそれは見事だそうですが、境内の坂や階段が結構きついので、運動不足の方には辛いお寺かもしれません。私の従者はバテておりました。http://t.co/z2lUl9y8
2012-05-19 21:48:07落柿舎(向井去来の草庵)の北側にある、西行法師がこの付近に庵を設けた時に使用していた井戸の跡だそうです。信憑性は…どうなんでしょうね…。http://t.co/N4XEgRjz http://t.co/Te9WvvsV
2012-05-19 21:57:35西行(1118~1190)平安時代末期の僧侶・歌人。
富裕な武家に生まれるも23歳で出家。高野山に庵を結びつつ各地を旅する生活に入る。
花と月を愛した歌人として現在でも高い人気がある。
百人一首では86番に入選。
嵐山から移動しまして、次は東福寺に参りました。2枚目の画像は方丈の北庭です。http://t.co/Nv5H4TQB http://t.co/91oAJWmz
2012-05-19 22:02:13九条兼実(1149~1207)藤原忠通の子で九条家の祖。
東国で覇権を握った源頼朝と協力体制を築き、自らも朝廷内の実力者となる。
一方で平氏や後白河法皇に対しては一貫して批判的態度を貫いた。
40年近く執筆し続けた日記「玉葉」は、当時の政治事情や有職故実を知るための一級史料である。
塔頭のひとつの大機院です。こちらの墓地には、兼実公の御父君の藤原忠通公と、御子息の九条良経公の墓があります。ただし九条家墓地の区画には入れませんので、壁越しに覗き込む形になります。http://t.co/jtSjWkTl
2012-05-19 22:21:32藤原忠通(1097~1164)通称法性寺殿。
長年に渡り摂政・関白を務めたが、父の忠実や弟・頼長と激しく対立し、保元の乱を引き起こす一因となった。
書道や詩歌等に秀でた趣味人でもあった。
百人一首では76番に入選。
九条良経(1169~1206)九条兼実の次男、通称は後京極殿。
後鳥羽院の信任厚く摂政や太政大臣を歴任するも、父に先立ち頓死。
歌合を度々催すなど歌人として名高く「新古今和歌集」の撰者の一人であり、仮名序を執筆している。
百人一首では91番に入選。
なお忠通公と兼実公に関しましては、今熊野観音寺にも御二方の墓と伝えられる宝篋印塔があるそうです。東福寺からも近いので、お時間のある方は立ち寄られてみてもよろしいかと。http://t.co/Ou3eXoYC
2012-05-19 22:25:30また東福寺の南方の墓地には、藤原俊成卿の墓もございます。住宅街の一角で分かりにくい場所なので、予めお寺で道を聞いて行く方がよいかと思います。http://t.co/B4Hwyzwz
2012-05-19 22:36:01