#twblnovel 雨の夜、兄は自損事故を起こし頭を打った。幸い外傷は大事なかったが、家族の中で俺だけを忘れた。ごめんと辛そうに目を伏せる。力なくシーツに落ちた手に掌を重ねると、おずおずと握り返してきた。兄弟で繋がることに悩んで家を飛び出した兄は帰らない。少なくとも、今はまだ。
2012-04-28 23:14:59長月 さんは 【最後の日/薄明かりの中で/新しい服/這い出る】 をキーワードにお話を書いてください。 http://t.co/1Hi1Lg6l
2012-05-01 22:10:20#twblnovel そっと寝床から這い出る気配。袖を通されたおろしたてのシャツが、明け方の光を集めて淡く浮かび上がる。お早う兄貴、爪痕が残る裸の腕を伸ばし、折り目のついた固い布地に皺を寄らせた。無言で振りほどき出ていく背中に、夕方から雨だってと声をかけた。それが最後の朝だった。
2012-05-01 22:09:40#twblnovel 自分の飯に懲りたと言って兄貴が地元で就職を決めた頃、田舎のじいちゃんが腰を痛めた。早期退職した親父とお袋が同居することになり、生まれ育った家に二人きり。病院のベッドで意識を取り戻した兄貴は駆けつけた両親と祖父母に目を丸くしたが、その目に俺は映っていなかった。
2012-05-04 21:38:38#twblnovel きっとショックで自失してるだけ。落ち着いて話せば、退院して家に帰れば、好物を作って食わせれば。期待は悉く空振りに終わった。洋食屋のバイトで覚えたドライカレーを兄貴はおいしいと言ったが、途中でスプーンを置いてしまった。どうして。震える肩に触れるのが躊躇われる。
2012-05-05 00:35:53#twblnovel 弟の不在を除き、兄貴の記憶は概ね完璧だった。勤め先の人間も、滅多に会わない親戚も。俺の同級生のみつおにもうすぐ二人目の子供が生まれることも忘れてなかった。じゃあサトシ君や浩市さんは? 嫉妬混じりに問い詰めてしまいたいのを堪え、焦っちゃだめだよと作り笑いする。
2012-05-05 21:46:02#twblnovel 考え得る理由は簡単、兄貴は忘れたいから忘れたのだ。弟の成人祝いだと飲ませて潰して、同性と付き合っていた過去をネタに迫った卑劣な男を。アルコールに昂り歯止めがきかない体、一方的に舐めて奉仕してやったら終いには泣き出し縋ってきた。全てを手に入れた気になっていた。
2012-05-05 23:02:56#twblnovel 隆行さんが事故でと警察から電話が掛かってきた時、俺は家にひとりでいた。田舎の親父達より先にみつおに連絡して軽トラで病院に送って貰ったが、急に腹の大きな嫁さんとちびを思い出して追い返した。とにかく動転していた。薄暗い廊下のベンチで、兄貴を失うのかと怯え続けた。
2012-05-06 21:26:11#twblnovel 数週間で兄貴は職場に復帰し、残っていたお袋も心配しながら田舎に戻った。兄貴は俺に遠慮があるのかややぎこちないが、定時に上がって一緒に飯を食う。以前は毎日帰りが遅く、まともに口もきかずに押し倒していた。透明な薄い膜にくるまれたようなこの平穏はいつまで続くのか。
2012-05-07 17:24:32#twblnovel ややっこしい事になってんな、俺も気を付けなきゃな。家業の酒屋を手伝っているみつおは、家では我慢している煙草を俺にたかる。で、岬はたあ君に優しくしてんの。は? 聞き返すとくりくりした目を煙にしかめた。俺が兄貴を大事にしなかったからだって、あの時言ってただろ。
2012-05-07 22:02:58#twblnovel …岬、兄貴が俺を呼ぶ前には一瞬間がある。記憶から消えてしまった弟と二人ではと気遣うお袋を、心配いらないからと帰らせたのは兄貴だった。無理をしても周りに合わせて自分を演じる。弱味を握られて犯されても、家を出るという選択が存在しなかった兄貴につけ込んだのは俺だ。
2012-05-08 22:55:56#twblnovel 味噌汁の椀を手渡すと、ありがとうと受け取る。よそよそしく感じるのはまだ慣れないせいか、仮初めの日常だからか。苛立ち蔑み絶望し、やがて悦楽に塗り込められる表情が脳裏に浮かんで箸が止まる。どうかした? 事故より前には思いもよらなかった穏やかさで、兄貴が微笑む。
2012-05-09 17:52:35#twblnovel 記憶が欠落したまま暮らすとはどんな感じなのかと本人に確かめてみたら、家に知らない奴がいて飯作ってくれてると答えた。案外快適だけど、これが妹なら面倒だったろうなと言われて苦笑いする。仲良し兄弟のふりは、兄貴の記憶が戻ると同時に終わる。それがいつかはわからない。
2012-05-09 20:44:58#twblnovel 緊張状態は長続きせず、兄貴は寛いだ様子を見せ始めた。テレビを観て笑う芸人は前と同じ。兄貴と付き合う男に嫉妬したように、兄貴の記憶にある者が妬ましい。だが、もし俺を覚えていたなら、ここでこんな風に無防備になる筈はない。いつしかソファに身を預けて舟をこいでいた。
2012-05-09 22:39:24#twblnovel あの日、部屋に行くのを億劫がる兄貴をこのソファに寝かせてキスした。あんたは男が好いんだろう、俺にもさせてよ。兄貴は重たげな手足を足掻かせたが、逃がす気も余裕もなく口でいかせた。安らかな寝息と、伏せられた睫毛。いっそ眠らせたままでおけば、俺の科を誰も知らない。
2012-05-10 00:26:00#twblnovel 寝顔を眺めていると、小さく呻いて目を開ける。俺を映したそこに嫌悪は差さない。隆行さんの記憶は戻らない可能性もあると医者は言った。でもさ、普通は知らない奴の前じゃそんな風に寝こけねえよ。兄貴は俺が掛けた毛布の端を手繰った。だって忘れても何でも、俺達は兄弟だろ?
2012-05-10 22:05:57#twblnovel プレッシャーになるからと過去の話を避け、兄貴の世話を焼く。綱渡りめいた平穏が続くにつれだんだん手放し難くなった。何より、兄貴を失うかもしれない恐怖をもう知っている。ただの兄弟に戻れるなら、いつか兄貴が思い出して破局を迎えるのだとしても、きっとそれが一番いい。
2012-05-11 19:56:12#twblnovel 講義からの帰り、スーパーに寄って食材を仕入れる。ポケットの携帯が着信して、行き交うおばちゃん達の邪魔にならないようよけた通路の端で立ち尽くした。同僚と飲みに行くから遅くなる、夕食は不要。簡潔なメールを何度も読み返し、だらりと伸びた腕に提げた籠が掌に食い込む。
2012-05-11 22:09:26#twblnovel 肉や野菜を元の棚に戻し、缶ビールを買って帰る。いつ開けたものか、気がついたら空になったそれらが転がったテーブルに突っ伏していた。岬、みーさき、風邪ひくぞと軽く頬をはたかれる。緩んだネクタイがやけにだらしなく見えて、兄貴の手を掴んだ。…帰って来ないかと思った。
2012-05-12 21:53:11#twblnovel 翌朝、飛び起きると同時に頭痛に襲われ蹲った。兄ちゃんが死んじゃったらどうしようと思った、箍がはずれたようにぐずぐず泣いて甘えて、半ば引き摺られて部屋まで連れて来られたのを微かに覚えている。ふらつきながら居間に顔を出すと、昨夜は面白かったと兄貴はにやにやした。
2012-05-13 01:25:05#twblnovel 岬は兄ちゃんが大好きなんだな、手渡されたオレンジジュースのコップに誤魔化し笑いを落とす。酔っていたとはいえ妙な事は口走ってないようで一先ず安堵した。本当は本当に大好きだ。嫉妬に狂って無理矢理に体を繋ぐ位。だけど今は、もう一度手を出して嫌われる根性なんかない。
2012-05-13 16:20:40#twblnovel 随分出来た弟だと思ってたんだ、やっと抜けてるとこがあった。兄貴は二日酔いの俺をさんざんいじった後、急に寂しそうな顔になった。俺が独り暮らしなんかできる筈ないのに、どうしてお前を思い出せないんだろう。勝手に食べたらしいパン屑が散らかったテーブルに肘をつき俯く。
2012-05-14 13:05:41#twblnovel 薄い光の膜が張った目に驚く。何だよ、これからうまくやってけばいいだけだろ。努めて明るい声を出し、ていうか食った後始末くらい自分でやれよ、俺、小姑みたいで嫌なんだけど。パン屑をざっとかき集めると兄貴は笑った。うん、今度会わせるよ。は、誰と? だから、昨日の子。
2012-05-14 20:20:00#twblnovel 記憶喪失のついでに嗜好が変わるなんて事があるのだろうか。俺の知る限り、兄貴は男としか付き合ったことはない。よく家に遊びに来ていた同級生に、妻子ある身で兄貴を引っ掛けたくそ上司。隣の部屋から洩れ聞こえる諍いめいた声に、じっと息を潜めていた俺はまだ小学生だった。
2012-05-15 00:30:26