橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判55
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国後島の教会堂
国後島に建設中のロシア正教会聖堂(毎日jpより)。http://t.co/LUYdCgue 前のは「99年に建設された木造の聖堂で、腐食による老朽化が進んでいた」――99年て、1999年のことなのね? なんて厳しい環境!
2012-07-07 12:24:32 ---
迷子の羊
聖書に羊飼いが99匹の羊を置いて1匹を探しに行く話があるが、あれは残り99匹は行儀よくしていたから天国に行くと解するべきなのか、それとも行儀のいい99匹がなぜか羊飼いに見放されて地獄に行ってしまうという理不尽な話なのか……。
2012-07-07 14:46:23@bible_go それは「喩え」のすべての要素に「意味」を見出そうとする「アレゴリカル」な聖書解釈になるのではないか、と私は思うけどね。
2012-07-07 14:58:48見失った羊の喩え、99匹の羊を残す場所はルカ版では「野原」でマタイ版では「山」。前者だと羊を野原に残すという行いの愚かさが強調されている。後者だと、「山」は神の住まう場所つまり教会を象徴しているから、99匹の安全は確保されており、羊飼いは安心して探しに行っている、と考えられ、→
2012-07-07 15:32:28→本来教会に属すべき人々を見つけるという点がルカ版に比べて強調されていると考えられ、つまりマタイ版は宣教論の立場から編集されていると考えられる。
2012-07-07 15:33:20@shinobuyoshi マタイ(イエス共同体での関係)とルカ(『罪人』と食するイエスを批判するパリサイ派)では喩えが置かれている文脈が異なり、99匹が残された場所に意義があるとすると、マタイの「山(あるいは丘)」がエゼ34:6を背景にしていることか。(WBC註解)
2012-07-07 17:41:48@shinobuyoshi いずれにしてもポイントは「失われたイスラエルの回復」ではないか。取税人や罪人はヨハネのバプテスマを受けたが、パリサイ派、律法学者はそうしなかった。自分たちが悔い改める必要、「さ迷えるイスラエル」であることを自覚できなかったから。
2012-07-07 17:45:15@SugamoSeisen 「イスラエル」が神に従う人という意味でしたら「失われたイスラエルの回復」のモティーフを読み取ることはできると思います。因みに、マタイ版では少なくともファリサイ派は洗礼を受けに来ています(3:7)。
2012-07-07 18:05:39@shinobuyoshi 確かにマタイ3:7にパ派やサ派がヨの洗礼を「受けに」とあるが、ヨは彼らは基本的に「アブラハムの子孫」であることの自負から真の悔い改めを自覚していないことを非難し警告している。ルカ7:29-30のイエスの評価とは恐らく矛盾していないだろう。
2012-07-07 20:14:12---