いじめ問題が出ると、当然のように「いじめられた側」の意見が出て「いじめた側」の意見は出てこない。これは「いじめ」に当事者の意識がないから当たり前。それを「いじめられた側ばかりで意見をいうよね」と言い出すと、今度は「いじめられた」という経験からの意見が出にくくなる。
2012-07-08 21:24:23当たり前のことなんですけど、人間誰もが他者を知らない間に攻撃しながら生きている訳です。何気ない言葉で人を傷つけていることだってある。だから言葉や振る舞いには気をつけないといけないし、気にしすぎて何もできなくなるというのは避けないといけない。
2012-07-08 21:25:50Twitterでもブログでも、なにか発信する以上は絶対に傷つく人は居るわけです。それが輻輳して過度なる攻撃になると、それはもういじめなのかもしれない、ということです。炎上とかですよね。
2012-07-08 21:26:47善意も悪意も、重なることで輻輳して掛け算のようにどんどん膨れ上がっていくものです。その掛け算が起こる可能性は、元の因子である個人には予想もつかなかったりするわけですから。ひとりがほんの小さな攻撃をしたとして、それが重なって行く事で強い攻撃になることだってある。
2012-07-08 21:29:19例えば、会社で「お前、これじゃダメだろ、もっと勉強しろよ」とひとりがひとりに言う。で、周囲がフォローで「まあ、あいつもあんな感じだけど、気にしすぎんなよ。でもがんばろうぜ」と出来れば、最初のダメージはある程度プラスに転化できるかも知れない。
2012-07-08 21:31:49いじめは、やってる本人の意識やらとは無関係に、積もったものがどこまで重ねがけされていくか、ということが大きく、どこまで積もるかは環境次第というところ。だから本人にそもそも悪意の自覚なんてないことの方が多い。
2012-07-08 21:33:14嫌なことを言うと、「そもそも攻撃することを生理的に嫌悪するという感情が欠けているから攻撃行動をおこし、嫌悪する感情が育ってないから『攻撃をした』ということに気付かない」だと思います。
2012-07-08 21:34:22もっというと「いまさら『いじめた側は覚えてないものだ』というのがふぁぼられるのはおかしい」というのは、こんな当たり前のことが共有されてないということが変だということです。
2012-07-08 21:36:21いじめにおいて、攻撃した(攻撃になってしまった)側がその事実に気付けない以上は、いじめられた側の目線から「こういう環境は変えたい」と発しないと話は変わらない訳です。そこを揶揄するのはおかしい。
2012-07-08 21:39:00「攻撃することを生理的に嫌悪するという感情が欠けている」というのは、例えば他人を殴った時に感覚的に「嫌だな」と思うかどうか、というようなことです。これが欠けてる人に「それは悪いことだ」と説明するのが「法律」などの外的要因でしかできなくなる。
2012-07-08 21:42:41内的な感情によって「攻撃すること」が「ドス黒い感情」に結びつかない人は、「他人を喜ばせること」が「明るい感情」に結びつかないんじゃあないか、と考えています。仮説だけど。
2012-07-08 21:43:52「他人が喜ぶこと」に「自己の喜び」を見いだせない人は、それだけで損しているから、人生のプラマイでいうと同じ気がするけれど。
2012-07-08 21:44:22「いじめられた」と思う経験で話すのも良いと思います。そのとき、一緒に「自分はそういうことなかったかな」と考えてみればいいんじゃあないかと思うのです。それでも自分がやったことには気付きにくいんだけど、やらないよりはマシですよ。
2012-07-08 21:45:46この辺は難しいもので、『攻撃』自体に悪い感情を持つという過程で「攻撃される」ということが挟まるということがあると思うんですね。だからって親が子供をバッコバコにドツくというのは違うんでは、とも思う。だから、子供に倫理観を持たせるっていうのはとても難しいことだと思います。
2012-07-08 21:50:45