私は詩や俳句にとくべつ詳しい者ではありません。ことばに対する興味はありますが、専門的な知識があるわけでもありません。ですから、あくまでも素人談義の域を出ませんが、詩や俳句について、とくに俳句について考えてみたいと思います。
2012-06-02 19:57:59同じようなことは、たぶんいろんな人が言っていると思いますが、私がそういう考えを知ったのは、樋口桂子さんの『イソップのレトリック―メタファーからメトニミーへ』(1995年, 勁草書房)という本ででした。
2012-06-02 20:04:00隠喩(メタファー)とか換喩(メトニミー)とかいうのは修辞学(レトリック)の用語です。隠喩も換喩も「あるもの」を明示して「他のもの」を暗示する技法であることは同じですが、次のような違いがあります。
2012-06-02 20:05:09すなわち、隠喩とは「あるもの」を明示して、それに類似する「他のもの」を暗示する技法、換喩とは「あるもの」を明示して、それに近接する、もしくはそれを包含する「他のもの」を暗示する技法だということです。
2012-06-02 20:05:42たとえば、「涙」ということばで「雨」を暗示するのが隠喩だとしたら、「涙」ということばで「悲しみ」を暗示するのが換喩だということになります。
2012-06-02 20:08:00この場合、「涙」は「悲しみ」にともなう様々な現象の一部と見ることもできますから、換喩の機能は「部分で全体を表す」こととまとめることもできます。
2012-06-02 20:08:31一方、俳句という詩の特徴は「連続した風景から一部分を切り取って提示する」ことですから、その点で「部分で全体を表す」換喩の機能と重なります。先ほどの「俳句は換喩的」ということばは、そのように理解することができます。
2012-06-02 20:09:36ただし、通常の換喩と詩的な換喩には、次のような違いもあります。すなわち、通常の換喩では「一つの表現が一つの意味を表す」のに対し、詩的な換喩では「一つの表現が一つの意味を表すとは限らない」ということです。
2012-06-02 20:10:07換喩では、前述のように「涙」で「悲しみ」を表すことがあります。しかし、それしか表さないのであれば、詩にはなりません。「悲しみ」という一言では表せない複雑なものが表されて、はじめて詩といえるのです。
2012-06-02 20:10:58俳句というと、やはり「古池や蛙飛びこむ水の音」という句が思い浮かびます。この句を知らない人は少ないと思いますが、この句が名句といわれる理由を知らない人は多いかもしれません。
2012-06-02 20:13:29私もその一人で、この句がなぜ名句とされているのか知りません。それでも、私なりにこの句に感銘を受けているのも事実です。一見、何の変哲もない文面に、意外な味わい深さがあることが感銘の理由です。
2012-06-02 20:14:03動詞も「飛びこむ」というふつうのことばです。ただそれに「水の音」と続くことで、その「音」がした時点で、「蛙」はもう視界から消えていることが暗示されています。
2012-06-02 20:15:02つまりこの句では、直接的には「池」の「蛙」の小さな運動が記されているにすぎませんが、それによって、その後に続く「蛙」の「不在」とか、その背後にある「池」の「静寂」とかいった、言外のイメージが間接的に感じられる仕組みになっているといえます。
2012-06-02 20:16:17もちろん、こういう質素な感じのものだけが俳句というわけではないと思います。俳句にこういう感じばかりを求めると、かなり窮屈なことになってしまいそうです。
2012-06-02 20:19:17ただ、この句が俳句の特徴をよく表しているとはいえると思います。そして、この種の句を作るのは、簡単そうでなかなか難しいともいえます。少なくとも私には難しいです。
2012-06-02 20:19:50これに比べると、隠喩的な表現をするのは簡単に思えます。といっても、隠喩を上手に使うのは難しいですが、下手な隠喩でよければ、かなり機械的に作り出すことができます。
2012-06-02 20:20:22