- rockets_yamada
- 1744
- 0
- 0
- 9
谷地先生曰く、「.だから、ボクには飯島晴子の次の文章はコジツケのようにしか読めない。」→「牡丹散て打かさなりぬ二三片」の「散て」はどう読むのかhttp://t.co/CM9yKnyF1k
2013-05-11 07:17:18@rockets_yamada 飯島晴子の原文: 「ちりて」では、「打ちかさなりぬ」との間の、音の質感が連続してしまって、「散て」はむろん、「打ちかさなりぬ」も、言葉の働きが鈍くなる。チッテと、一度ここでパッと払うから「打ちかさなりぬ」という言葉が、この言葉に等しい重みを含んで
2013-05-11 16:45:41@rockets_yamada 飯島晴子の原文の続き:続き、「二三片」も、花弁そのものとして顕ってくるのである。 ---------------------------- こういう鋭敏な感覚は、英訳すれば同じだなどと混ぜっ返しちゃいけないと思うのです。
2013-05-11 16:49:09「牡丹散て打かさなりぬ二三片 蕪村」 「卯月廿日の有明のかげ 几董」 『「ちりて」と読んで、几董の脇と並べて、更に、私はがっかりした。これは、私の蕪村でも、牡丹でもない。』(飯島晴子)
2013-05-12 08:51:34『そこで気がつくのは、連句の発句というのは、言葉が一行の"もの"になつていてはいけないのではないかということである。何らかの方向へ、意味の紐を垂らしておかなければいけないのではないかということである。これは俳句とは決定的に異なるところである。』(飯島晴子)
2013-05-12 09:00:38@rockets_yamada "もの"はこの場合、"の"を高く読むのではなく、"も"から高い"ものになる"という意味のようですね。
2013-05-12 09:12:37この言葉を思い出します。 @yukari3434 『俳句は上から下へ言葉に添ってゾロゾロと読み下すものではなく、一句の上下同時に眼にはめ込まれるようにうけとられるものである。俳句一行のこの棒は、私には眼玉の直径となり得るギリギリの長さのように思われてならない。』(飯島晴子)
2013-05-12 09:16:41@rockets_yamada でもこれは連句が復興していなかった時期の発言だと思います。連句でも発句は別格で脇に意味を垂らしたりしません。挨拶性はありますが、切れ字によって独立させます。
2013-05-12 09:19:33『チッテと、一度ここでパッと払うから、「打かさなりぬ」という言葉が、この言葉に等しい重みを含んで続き、「二三片」も、花弁そのものとして顕つてくるのである。一音の違いで、十七音がひとつの "もの"になるかならぬかである。』(飯島晴子)
2013-05-12 09:24:50@rockets_yamada 俳句は書かれた文字を味わうものなのか耳で味わうものなのか、という問題にも関わりますよね。多分。
2013-05-12 09:33:45蕪村の時代、すでに連句の座は壊れていた→http://t.co/WLBwwhuc1Z 引き続き谷地先生のブログ。蕪村の連句の座にはみるべきものがない、というか、蕉風以後ないというお話。どうも、私は獅子門みたく、連句は「型」として継続していたことを前提に考えすぎていたかもしれない。
2013-05-12 09:38:25@rockets_yamada 「一句の上下同時に眼にはめ込まれるように」という飯島晴子さんの発言、四ツ谷さんが講演の時に紹介していなかったかしら。四ツ谷さんが俳句を繰り返し読み、何度目で内容を理解できたかということをやられ、俳句を脳のどこで認識するのかという興味深い講演でした。
2013-05-12 10:17:03@yukari3434 そうですか。それは聞いてみたかったですね。俳句は理解するものなのかどうかということも少し思いますが。
2013-05-12 10:25:54大好きです。 “@ushitaka7: @rockets_yamada @yukari3434 飯島晴子は良いですね(^-^) 晴子好きなようデスネ。”
2013-05-12 11:36:38「うねりをかくしわが裏山は東(あづま)に一つ 竹本健司」の句の解釈を巡っての金子兜太と高柳重信の応酬を読んでる。オモシロイ、これ。
2013-05-12 12:31:18『俳句というものは、何といったって、とにかく言葉で書いてあるんだから、始めから終わりまで言葉に即して読もうとしなければいけないわけですよ。散文とはちがって、作者の内情などは無視してしまわなければダメです。あなたとの対立点というのは、常にそこからはじまりますね。』(高柳重信)
2013-05-12 12:38:27