本日のツイート(2013.5.11)

たくさんツイートしたのでまとめておきました。
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やまだろけつ @rockets_yamada

@yukari3434 @musashinohaoto 「というよりむしろ、俳句は、わが国の詩的近代がいっぽうでついに解体しえなかった"定型"の表現なのであって、まさにその「解体しえなかった」ことにリアリティにこだわってみせることにこそ、俳句の現代的な意義が存在するのである。」→

2013-05-23 13:15:07
hashimotosunao🍆 @musashinohaoto

@rockets_yamada @yukari3434 私の言ってたのは『俳句が文学になるとき』でした。「短歌と俳句の音数律もまた、短詩型という衝立てをはずしてしまえば、ごく自然に大衆的な歌謡のリズムになだれ込む。しかし衝立て一枚によって、それは軍歌とも文部省唱歌とも交差しない」

2013-05-23 17:25:03
hashimotosunao🍆 @musashinohaoto

@rockets_yamada @yukari3434 どっちも同じ趣旨の文でしょうね。この見立てはたしか筑紫さんも共有してるかと。逆に言えば、井泉水らの無季自由律は俳句を解体する近代の立場だったということ。これ、もし今言うなら有季定型は俳句のコンテンツにすぎない、ってところか。

2013-05-23 17:37:19
やまだろけつ @rockets_yamada

@musashinohaoto @yukari3434 「さきに<短歌の上句>ということを、五・七・五=十七音の〝定型〟の発生的な本質として考えようとした。それは言葉をかえれば、その〝定型〟自体のうちに、発生的に切り捨てられた「七七」の<下句>が、いわば幻肢として、→

2013-05-23 18:40:10
やまだろけつ @rockets_yamada

@musashinohaoto @yukari3434 →構造的に抱え込まれているといってみてもよい。この<幻肢としての下句>は、ことさら俳諧の脇句のなごりと考える必要はない。五・七・五という音数律そのものの不安定さなのだ。→

2013-05-23 18:40:34
やまだろけつ @rockets_yamada

@musashinohaoto @yukari3434 →そして「切れ」とは、すなわちこの<幻肢としての下句>から切れる方法意識にほかならない。」(仁平勝)

2013-05-23 18:40:59
やまだろけつ @rockets_yamada

@musashinohaoto @yukari3434 <幻肢としての下句>というのにもグッときましたw。このまとめとも大いに関連のある内容でした。 http://t.co/hkijqnEunf

2013-05-23 18:43:10
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