本日のツイート(2013.5.11)

たくさんツイートしたのでまとめておきました。
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三島ゆかり @yukari3434

子規が切り捨てたものは脇以下の付けるという行為です。

2013-05-12 15:30:02
三島ゆかり @yukari3434

だから俳句と名づけられたものは発句だというのは正しいし、江戸時代と同じ作法で正統な立句ばかりに終始したら、志の高い人は「発句もどき」と揶揄します。

2013-05-12 15:33:23
hashimotosunao🍆 @musashinohaoto

例の対談に少し関連する記事が。江田浩司さんは歌人だが、谷地先生の弟子筋だっけかな。 「恐ろしいのは、重信が俳句に出会ったという実感を得られるためには、どのような句が作られねばならないのかが私などには想像もつかないことだ」江田浩司http://t.co/IGzMad833n

2013-05-12 16:06:44
たじま @tajimaken

重信の把握はある意味正しいけれど、とりとめのないところへはまり込んでますよね。それはわかるんだけど、それがどうはまり込んでいるのか、勉強不足で説明できない。世界を捉え損ねてるんではないですかね。 RT @musashinohaoto: 例の対談に少し関連する記事が。

2013-05-12 16:25:06
hashimotosunao🍆 @musashinohaoto

@tajimaken その説明は難しい。詩的言語としての俳句のことばを技術論として演繹的に積み重ねれば、発句もどきじゃない句を生み出せると信じていたように感じる。しかし、そんなことしてもすぐにどん詰まりになると思うし重信がそれに気づいてなかったはずはないと思うのだけれども。

2013-05-12 16:34:50
たじま @tajimaken

案外、気づいていなかったんじゃないかと。詩を支えているある種のフィクションを、実体化(技術化)できると。そういうロジックに陥っていたんじゃないか、と。 RT @musashinohaoto: @tajimaken 重信がそれに気づいてなかったはずはないと思うのだけれども。

2013-05-12 16:38:50
hashimotosunao🍆 @musashinohaoto

@tajimaken 断定する材料はもってないけど、なんとしてもそこを目指さねば、発句もどきからは抜けられない、という強迫観念がそれをさせちゃったのかもしれない。

2013-05-12 16:47:10
たじま @tajimaken

たまたま書棚に「高柳重信読本」があったから、気長に読んでみるかな。  RT @musashinohaoto: @tajimaken 断定する材料はもってないけど、なんとしてもそこを目指さねば、発句もどきからは抜けられない、という強迫観念がそれをさせちゃったのかもしれない。

2013-05-12 16:48:23
hashimotosunao🍆 @musashinohaoto

@tajimaken うちにもあったかな。あと『現代俳句の軌跡』くらい。おもしろそうならそのうち勉強会やるべ。

2013-05-12 16:52:28
やまだろけつ @rockets_yamada

「高柳重信読本」ウチにもあったよなぁ、たしか。しかし、高柳という人も「論より実作」の人なのだろうか。ともあれ、今日はここが一番ぐっと来た。→ https://t.co/Igst7rSE6m

2013-05-12 17:56:52
やまだろけつ @rockets_yamada

ふと思ったんだけど、そういえば句碑の多くは分かち書きだよね。 https://t.co/nXpnePlXVs 色紙も。 https://t.co/w1Zy4bpGuU

2013-05-12 18:12:30
やまだろけつ @rockets_yamada

しかし、読みにくいことは読みにくい。目がチラチラする。今日はもうやめとこうかな。 http://t.co/Sk3nWhaRFL

2013-05-12 18:21:59
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やまだろけつ @rockets_yamada

しかし、脇以下から切れているということは脇以下を切っているという意識があるのではないだろうか。本来は。

2013-05-12 18:45:13
やまだろけつ @rockets_yamada

尾を切ったトカゲを完成形として鑑賞する、みたいな。(この喩え、ちょっと違うな)。

2013-05-12 18:55:33
やまだろけつ @rockets_yamada

つまり脇の存在へ意識があるからこそ切る必要が出てくる(あかん、きょうはもうやめとこ)。

2013-05-12 18:57:38
ot @_ot

立句=発句ですが、これは近世後期(蕪村辺り)からの言葉です。連句が芯だった芭蕉以降は座へ供する発句に対して独立のものを地の発句、地発句と。漸次、しょっちゅうできない座の連句より各々の発句作りが主になり、そのまま発句、(座へ)立てた(立てる)ものを立句と呼び分けるように。

2013-05-12 20:00:19
ot @_ot

なので、もし元々平句に対する言葉として立句があったと捉えると、その感覚は微妙に違ってしまいます。平句と発句は全く違い、発句は独立していますが、立句であれば同時に、平句(脇)との協調を考えておく必要があります。屹立しながらの協調です。しかし・・・

2013-05-12 20:01:41
ot @_ot

しかし・・・地発句ならばそれが必要ありません。立てる際も、多くの中から立てられる句を選べば良い。ある意味解放された状態で作られているものです。

2013-05-12 20:02:28
ot @_ot

まとめると、江戸時代の発句と言っても、連句の発句=立句よりも、一句独立の地発句の方が多い(全然後に繋がってない)。立句の場合でも協調を考えるのは主に脇側の仕事ですから、地発句からでも容易に立句になる。ほぼ三島さんのお話通りで、平句と立句の関係だけちょっと補足でした。

2013-05-12 20:12:27
hashimotosunao🍆 @musashinohaoto

形式としての切れ、ということより、作家として切る、というべきか。そこは俳句の自明の知のなかに落とし込むより、もっとざわざわするほうへいかないといかんよね。

2013-05-12 20:58:29
三島ゆかり @yukari3434

@_ot @rockets_yamada すみません、補足ありがとうございました。ちなみに私は研究者でもなんでもない泡沫ネット連句者で、また、俳諧を現代俳句に取り込もうなどという野心は持っていません。単に連句が好きなので連句をやっています(と瞳をきらきらさせる)。

2013-05-13 00:31:43
三島ゆかり @yukari3434

たまたま立ち寄った渋谷の古本屋で仁平勝『詩的ナショナリズム』(冨岡書房)ゲット。つい十日ほど前、露結さんと俳句は発句なのかという話で大騒ぎしたばかりなので、はまるはまる。

2013-05-23 00:04:12
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