ニー仏×慈永和尚 対談:「仏陀と阿羅漢」  壱

H24/8/5~8/8 ミャンマー在住ニート:ニー仏 と スリランカ在住僧侶:慈永和尚 の対談まとめ (壱:8/5,6 http://togetter.com/li/353104  弐:8/7  http://togetter.com/li/353486  参:8/8  http://togetter.com/li/353532
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ニー仏就寝 慈永和尚のターン

@jiei_yushi001

いまつらつらと思い出したんだけれども、マハーヤーナの人たちは、教義通りのブッダあるいは教義通りの阿羅漢というのを、あまり信じてないんだな。「それは理窟の上でのはなしでしょ」という具合に。

2012-08-06 02:37:12
@jiei_yushi001

良遍「二巻抄」においても、唯識のアビダルマで無余依涅槃が無為に分類される、つまり因果の範疇外であることを一方で良遍は認識していながら、他方で如来は因無限大であるがゆえに果無限大なのだとしている。

2012-08-06 02:40:55
@jiei_yushi001

やっぱりどっちでもいいような気がしてきたな。

2012-08-06 02:43:44

慈永和尚も就寝

8月6日:「対談」開始

慈永和尚がこれ↓をRTする

ニー仏 @neetbuddhist

そいや、むかし曹洞宗の某老師に「テーラワーダでは預流果に入ると七生以内に阿羅漢に達すると考える」云々っていう話をしたら、「テーラワーダの人はそれ本気で信じてるのか!?」って言われたことを思い出したw

2012-08-06 02:29:31
@jiei_yushi001

「阿羅漢に達する」という部分というより、無余灰断についてナイーブに受け入れているんじゃないかということについて、本気で信じているのかと、驚愕してしまう気持ちは、実はものすごくよく分かる。

2012-08-06 08:32:22
@jiei_yushi001

ここまで来ると、理窟と言うよりはもはや宗教心、信仰心に基づく恐れとしか言いようがなくて忸怩たる思いもあるのだが、テーラワーダを修した人が、あまりに当然のごとくこれを言い切ることは「実はテーラワーダ仏教は『断見』なんです」ということと、違いがないような気がしてならないからだ。

2012-08-06 08:36:57
@jiei_yushi001

因果に拘束されないと答えても、因果の中にあるのだと答えても、どちらで答えても、地獄とまで行かなくとも、断常の二見に堕していて、『中道』ではない。少なくとも一切智者の視点からこれは言い得ても、少なくとも私のような凡夫の視点からこれを言い得ることは、ほとんどタブーに近い。

2012-08-06 08:42:23
@jiei_yushi001

私は、どこかでテーラワーダ教学に一定のダウトを抱いていて、それはテーラワーダ自体に問題があるのではなく、我々自身の認識の限界に基づくものだと思っている。

2012-08-06 08:46:44
@jiei_yushi001

有部が「有」を、唯識が「識」を宣揚し、それ自体が釈尊の教説と合致せず論争の余地を含んでいるのと同じく、教学というものに落とし込んだが故の、どうしても避けようのない、言語という限界から不自由さゆえ、表現上の粗雑さゆえに起因するのではないかと思っている。

2012-08-06 08:48:05
@jiei_yushi001

教学というのはあくまで地図であって、地球を平面地図に落とし込んだ途端、必ずどこかに歪みが出るが、しかしそれが地図の無用性と同義ではないように、そういう程度の意味では、私は、有部教学にも、上座部教学にも信頼を置いている。唯識や他の教理然り。

2012-08-06 08:52:18
@jiei_yushi001

逆に言えばその限界性というものが常にあるのだという思いは、私の中に常に根を貼っている。

2012-08-06 08:52:54

起床したニー仏氏の一言

ニー仏 @neetbuddhist

阿羅漢が「無余灰断」だというのは、中国経由の理解ではないか知らん。少なくともテーラワーダではそう考えていないと思う。現象は「苦・無常・無我」だが、涅槃は「常・非苦・無我」だというのがテーラワーダの原則的な理解なので、阿羅漢になっても「無余灰断」ということはないんじゃないかな。

2012-08-06 17:28:48

それに対する慈永和尚のターン

@jiei_yushi001

@neetbuddhist これには二点。1)無余灰断、私は無余依涅槃と同義と捉えましたが、チベットでどうなっているかの確認の余地はあれど、確かにそのままテーラワーダに当てはめるのは早計かもしれませんね。2)涅槃が「常・非苦・無我」というのは、実は大乗そのままの理解でもあります

2012-08-06 20:23:42
@jiei_yushi001

@neetbuddhist 2)の続き 例えば延命十句観音経にある「常楽我浄」これは釈尊が説かれたこの世の真理「無常・苦・無我・不浄」とまさに対応関係の表現ですが、こういう認識がヒンドゥーのアートマン(あるいはプルシャ)との定義の差が曖昧になってくる一因ではないかと思っています。

2012-08-06 20:36:06
@jiei_yushi001

@neetbuddhist 我々は般若心経を空と理解しますから、龍樹の八不中道と絡めてのみ理解しがちですが、ギーターの涅槃の表現とも酷似していますから、それとの差異はどの点なのかも実に曖昧です。

2012-08-06 20:38:35
@jiei_yushi001

@neetbuddhist 阿羅漢→ブッダの話からそれますが、この勢いで少し続けさせて下さい。ここまで来ると例えば仏教の唯識とか、サーンキヤ等が説明する現世のマーヤ(幻影)の話がほぼ同じ内容で、違うのはアートマン/ブラフマンが常か無常かという点に尽きてきます

2012-08-06 20:41:34
@jiei_yushi001

@neetbuddhist という話は以前ニー仏さんがつぶやいておられましたね。

2012-08-06 20:41:48
@jiei_yushi001

@neetbuddhist で、このサーンキヤ等のヒンドゥー系がいう涅槃と仏教のいう涅槃の差異は認められるのか認められないのか。これは日本の大乗仏教にとっても極めて重大な問題に絡んできます。破戒の問題です

2012-08-06 20:43:22
@jiei_yushi001

@neetbuddhist ご承知かもしれませんが、ギーターはカルマヨーガによる涅槃の獲得を描きますが、それは、戦争などの破戒行為の最中ですら達せられる。このあたり仏教では大般若経か理趣経ですが、両者とも殺生や性の破戒からをも涅槃を志向しますから。

2012-08-06 20:47:27
@jiei_yushi001

@neetbuddhist 破戒について、日本仏教がこれを典拠にしたところで、日本仏教の破戒問題は、世界でも例外的ですよね。アジア広汎に渡る現象なら考慮の余地もあるのでしょうけれども。

2012-08-06 20:50:38