ニー仏×慈永和尚 対談:「仏陀と阿羅漢」 弐
8月7日:壱の続き
慈永和尚のターン
@neetbuddhist 拝読いたしました。正直、分かったようなわからないような、という感じです。その分からない点について、実はニー仏さんと重なっているのではないかとすら思っています。
2012-08-07 17:35:29@neetbuddhist まず断常の二見について、特に常見は、ここhttps://t.co/O3R2jP2lでの「死後に魂等が存続するという見解」を前提にすれば、ニー仏さんの論理は一貫します。魂を、仏教で言う定義の「我」にすればズバリでしょう。
2012-08-07 17:38:44↓「ここ」
結局のところ、これは「アナッター」をどう捉えるのか、という問題に尽きるのではないかと思います。仏教は断見ではないが常見(死後に魂等が存続するという見解)もとらない。この一見矛盾する考え方を成立させているのが「アナッター」の主張ですから。 @jiei_yushi001
2012-08-07 01:45:40@neetbuddhist 私の「断常の二見」の捉え方は、龍樹の八不、釈尊の中道との絡みで見ていて、つまり我でも非我でも、何らかの「常」を設定する時点で、それは誤り、中道に背くと捉えています。
2012-08-07 17:40:47@neetbuddhist ニー仏さんは、テーラワーダでは涅槃を「常、非苦。無(非)我」というのが原則的な理解だとされておられ、私はそれは実は大乗の理解でもあると、延命十句観音経を例に挙げて指摘しました。
2012-08-07 17:43:21@neetbuddhist 大乗ではズバリ「常楽我浄」が涅槃なのですが、しかしこれは、そうとしか表現しようがないからそう表現しているに過ぎない、というのが私の捉え方です。そう捉えなければ、本当にサーンキヤ等のヒンドゥー系との差異が無くなってしまう。
2012-08-07 17:45:28@neetbuddhist もちろんこれは私が「仏教」というこだわりゆえにそう思うだけに過ぎないのかもしれません。ご承知の通り、真言乗では涅槃とか仏性とか、金剛(ダイヤ)と表現し、まさしく常住し、ヒンドゥー系の涅槃との差異はますますわからないほどだからです。
2012-08-07 17:48:26@neetbuddhist ニー仏さんは禅にも造詣が深いのでお分かりでしょうが、己事究明、つまり本来の自己を明らかにするというのは、禅での根本命題です。
2012-08-07 17:49:58@neetbuddhist しかし本来の自己とは何か。この「自己」という表現をする時点で「ああ、プルシャのことか、禅は仏教のかたちをとっているが、実際はちがうのか」と理解されることは、極めて多いわけです。
2012-08-07 17:51:22@neetbuddhist しかし、ここでニー仏さんのこのTweet https://t.co/FAjlWXzXをそのまま持ってくるわけです。
2012-08-07 17:55:01↓「このTweet」
@neetbuddhist このあたりになると「毒矢の譬え」とかなり同じような状況なので憚られるほどですが、ブッダや阿羅漢は「因果の中にあるのか、因果の外にあるのか」「有(bhava)を克服したならば、それは非有なのだから断見じゃないの」という素朴な疑問が出てくるわけです。
2012-08-07 18:01:16@neetbuddhist それで、私としても同様な、こういう意見https://t.co/lgiYPtYZに撞着せざるを得なくなります。
2012-08-07 18:03:54↓「こういう意見」
そのどちらが「正しい」のかと言われると、私にはわからないというか、単に名づけの問題ではないかという気もいたしますねえ。そもそも涅槃にせよ空にせよ、対象化された規定にはなじまない。仏教で「言語化できないこと」があるとすれば、端的にここなんだと思います。 @jiei_yushi001
2012-08-07 02:16:29@neetbuddhist というところで、百尺竿頭一歩前進ということで、こういうことhttps://t.co/AEO6Bllzなのだろうと思いますが。
2012-08-07 18:06:58↓「こういうこと」
仏教において、ここはどうしても語れない、「体得」していただくしかない、という領域はたしかに存在する。ただ、語れないにしてもそれを「示す」こと、語れる限界をもう少し追い詰めることはできるだろうと思っているので、そこは頑張って参る所存であります。
2012-08-07 02:25:46