ニー仏×慈永和尚 対談:「仏陀と阿羅漢」 参
↓「これ」
というわけで、ご質問です。慈永和尚にとって、「阿羅漢」と「仏陀」の差異とはなんでしょうか? また、その区別をとくに問題とされる意図は、どのあたりにあるのでしょうか? @jiei_yushi001
2012-08-08 15:46:54↓「ここと絡んできます」
良遍「二巻抄」においても、唯識のアビダルマで無余依涅槃が無為に分類される、つまり因果の範疇外であることを一方で良遍は認識していながら、他方で如来は因無限大であるがゆえに果無限大なのだとしている。
2012-08-06 02:40:55@neetbuddhist ここhttps://t.co/pXtjiiS7で述べた通り、法華経では阿羅漢がブッダになったりしていて、そこが法華経の衝撃さを物語るものでもあるのですが、理論的にスッキリしたウラがあるのかというと、よくわからない。
2012-08-08 21:27:10↓「ここで」
@neetbuddhist 法華経では阿羅漢も次々の授記を授かるのはご存知だと思いますが、実はこのあたりを見てこないと「ブッダになれないはずの阿羅漢がブッダになれる」ことが、いかに意外で衝撃的かが見えてこない。
2012-08-07 18:27:31@neetbuddhist この問題は、ここhttps://t.co/1Ty2qm4Vで述べた通り、普段はそのばで「まあ、いいか」で立ち消えるのですが、ことあるたびに逢着する問題でもあります。
2012-08-08 21:31:20↓「ここで述べた通り」
前述した通り、阿羅漢を通ってもブッダに至れるというのが法華経ひいては大乗の主張だ。まあその時は「まあどちらも苦の消滅を目指しているんだし、細かいことはいいよな」ってことで終わった。
2012-08-07 23:51:11@neetbuddhist つまりここhttps://t.co/PdXV4WP8など象徴されるように、大乗と部派では、噛み合わないが故の不幸というものがある。同じ目標を見ているようで、全然違うというような。
2012-08-08 21:33:34↓「ここなど象徴されるように」
ブッダにならないって言っているのに「(傲慢な)あなた方をけして軽蔑しません。なぜならあなた方は将来ブッダになるからです」とか云われると「さすがに何だコイツは」ってなるだろうし、極端な状況では打擲されることにもなりかねない。意外にこれはモデルとなる史実が存在しているのではないか。
2012-08-08 02:14:23@neetbuddhist 部派仏教と大乗について、資料整理的な比較というものは今まで多くありましたが、実際に我々の現実問題に引き当てて問うたものというのは殆ど無い。そこを真摯に向き合った人といえば、私はヴァスバンドゥくらい遡らないと挙げられません。自殺するほど悩んだほどですし。
2012-08-08 21:35:37@neetbuddhist まあ、そこのbridgeとしての役回りをやってみる思いで、大乗僧の衣のままこっちに来ているんですけどね。まあ何度もテーラワーダへの得度を口説かれましたけど(笑)
2012-08-08 21:37:59@neetbuddhist 実際にテーラワーダ僧体験をして大乗僧侶をされている方々は多数おられましたので、それはそれでそういう向き合い方としていいと思います。しかし宗教的次元で納得の上かというと、私は疑問がある。
2012-08-08 21:39:32@neetbuddhist 実態は殆ど別の宗教ですか らね。そういう中でいろいろ探る面白さというのは実感しています。まあ立場ゆえいろいろと不遇な思いもしますが。
2012-08-08 21:41:01いま慈永和尚が丁寧にリプしてくださってるので、終わるまで待つけれども、彼は私の知ってる曹洞宗の方々とは、ちょっと毛色が違う感じがする。
2012-08-08 21:40:47