ニー仏×慈永和尚 対談:「仏陀と阿羅漢」  参

H24/8/5~8/8 ミャンマー在住ニート:ニー仏 と スリランカ在住僧侶:慈永和尚 の対談まとめ (壱:8/5,6 http://togetter.com/li/353104  弐:8/7  http://togetter.com/li/353486  参:8/8  http://togetter.com/li/353532
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@jiei_yushi001

@neetbuddhist よってこれhttps://t.co/RYbOjIEUはまさに三阿僧祇劫の中で「夢見ている」のであり、そこから覚めれば、その永劫の期間も「猶如昨夢」で、結局いまこことして目覚めるはずのものだ、と。

2012-08-08 20:40:58

 ↓「これ」

ニー仏 @neetbuddhist

先ほど述べた「大乗」の原則からすれば、三阿僧祇劫の転生の果てに、「ブッダという理念」を夢見ることで、今・ここの生を「過程の生」とし、それを利他行のために使い切る、ということが、「涅槃」ではなく「無上正等覚」を目指すことの意味である。

2012-08-08 15:42:01
@jiei_yushi001

ここは、無上正等覚のための過程でもあるのですが、同時に過程という形態を取っただけに過ぎない。 QT:@neetbuddhist 今・ここの生を「過程の生」とし、それを利他行のために使い切る、ということが、「涅槃」ではなく「無上正等覚」を目指すことの意味である

2012-08-08 20:44:47
@jiei_yushi001

@neetbuddhist 因果は一如であって、例えば方便は方便という形をしている真実であって、この世は幻であるけれども同時に幻という形をした真実でもある

2012-08-08 20:46:03
@jiei_yushi001

@neetbuddhist で、ここhttps://t.co/1uZ8XVfWなのですけれども、そのあたりも根拠となりつつ、道元禅では「見性成仏」を標榜しない、あるいはその意味を認めないんです。

2012-08-08 20:48:59

 ↓「ここ」

ニー仏 @neetbuddhist

ここで、話が禅と交錯する。禅は「直指人心・見性成仏」を標榜し、今・この生における成仏を語る。その内実が、いったいいかなるものであるか、ということが、昨日中途で終わった話とも、深く関わってくるわけだ。

2012-08-08 15:45:00
@jiei_yushi001

@neetbuddhist 臨済宗で見性をさせる修行には、妄念を払う、特にテーラワーダでいう有身見だのを払拭させる手立てとしては十分効果的だとは思いますが、いろいろとDisadvantageもある

2012-08-08 20:50:26
@jiei_yushi001

@neetbuddhist 妄念は真実の一形態であるのに、妄念を忌み嫌うこと(テーラワーダでもそこを強調する人がありますが)、また見性至上主義に陥り、見性することのない人間の価値を貶めがちな状況をつくること

2012-08-08 20:51:49
@jiei_yushi001

@neetbuddhist 特に後者のように「見性できない人間は無価値」という状況を回避しているということは言えると思います。

2012-08-08 20:53:04
@jiei_yushi001

@neetbuddhist では曹洞宗のあり方が優れていると言いたいところですが、お気づきかもしれませんが、本覚思想にハマる危険がとても大きいわけです。いえ、実際殆どがそうだと思います。道元禅師は本覚思想への大疑団がその発心だったのですが、皮肉なことです。

2012-08-08 20:55:24
@jiei_yushi001

@neetbuddhist そしてこれhttps://t.co/RyzZ9nW1なのですが、ここhttps://t.co/rjiGpUhDで述べた通り、私は輪廻の因を執着と捉えました。それ以外の表現の仕方を、私はまだ持っていません。

2012-08-08 21:05:32

 ↓「これなのですが」

ニー仏 @neetbuddhist

例えば、このまとめ( http://t.co/JJDBoj5P )で、「前世も夢のようなものだ」と言われているように、和尚は輪廻転生を、さほどシリアスに捉えていらっしゃらないように思われる。

2012-08-08 15:36:49

 ↓「ここで述べた通り」

@jiei_yushi001

来世に生まれ変わる因、これを決定づけているのが、我に対する執着であるということは言えるのではないか。人間に生まれても、動物に生まれても、はたまた天界に生まれても、どこまでも我の執着というものは頑としてある。それであるかぎり、限りなく輪廻し続ける。

2012-07-20 16:46:21
@jiei_yushi001

@neetbuddhist 我も然り。古来仏教では、空と表現したり、阿頼耶識・末那識の理論を導入したりしながら、無我と輪廻について説明しようとし、そしてニー仏さんは、ハイデガーの表現を援用しつつそれに答えを提示されました。

2012-08-08 21:07:57
@jiei_yushi001

@neetbuddhist しかしそこに「常」としての「執着」が発生してしまうと、どの説明においても必ず掛け違ってしまう。「これほど噛んで含めるように説明しているのに、何でわからないのか!」ということを、私は仏教は昔から繰り返してきたと思います。

2012-08-08 21:09:57
@jiei_yushi001

@neetbuddhist あるいはそれを繰り返すことが仏教の一つの性格なのではないかとすら思います。

2012-08-08 21:10:04
@jiei_yushi001

@neetbuddhist なので、私としては「どれも正しい。しかしどれも誤解される」というのが本当のところだと思っています。

2012-08-08 21:11:21
@jiei_yushi001

@neetbuddhist いや、自分の誤解を棚に挙げるわけではありません。一般論です(汗

2012-08-08 21:12:54
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