もちろん、そんなことを言えば「それはお前が悟ってないからだよw アタマで仏教を考えるからそうなるんだw」と嘲笑されるのはわかっていた。ああそうかい。たしかに俺は悟ってないかもしれないが、お前らが正しいとも思えんがね。無好気(ウーハオチー)! 無好気だ!
2012-08-10 22:11:34だから私はミャンマーに来た。自分でソレを見た上で、そこからものを考えるのでなかったならば、仏教のみならずこの世界の全てについて、意味のあることは何も言えなくなると思ったからだ。
2012-08-10 22:15:35この洞山に三十年親炙しながら、最終的には彼を肯わず、別の老師(徳山)に嗣法した、巌頭という人がいる。この巌頭和尚は、「洞山に何の不足があったのか」と尋ねられて、こう答えている。
2012-08-10 23:30:27師(巌頭)はしばらく沈黙してから、おもむろに口を開いて言った。「洞山は素晴らしい仏であったが、ただ輝きがなかったのだ……」。そんな意味ですが、これはなかなか含蓄のある話です。
2012-08-10 23:40:28洞山といえば、先にも挙げた「過水の偈」が有名なのですが、この名前にも象徴的に表現されているように、此岸(作用即性)にも留まらず、かといって彼岸(大悟徹底)にも行ききらない、その中間状態にあり続けることが、石頭系の禅の特徴です(洞山は、灯史の上では石頭の曾孫弟子にあたる)。
2012-08-10 23:47:38こうした石頭系の禅風は、自然、馬祖系のそれのような、激しい接化の形(いわゆる「大機大用」)を伴わない。例えば、石頭に法を嗣いだ薬山は、境地を問われて「ぶるぶるよぼよぼ、みっともなく、こうしてとりあえず時を過ごしております」と答えている。(『祖堂集』巻四・薬山惟儼章)
2012-08-11 00:04:49それはそれで、一つの好ましい悟りの形ではあるけれども、しかしそこには、やはり現実の世界に活き活きと表現される、機鋒の輝きというものが欠けているのではないか。巌頭の言いたかったのは、そういうことではないかと思われます。
2012-08-11 00:10:37これはこれで、私にとってはしみじみと感ずるところのある話。先ほどふれたような、空疎なパフォーマンスや茶化した韜晦に自足する人たちとは別に、日本には、日々を仏教者として淡々と過ごされる「好箇の仏」がたくさんいらっしゃる。
2012-08-11 00:31:36……というところで、今日はツイートしすぎて頭がぼーっとしてきたので終了w こんなに長くなるつもりじゃなかったのにな。明日ちょっとだけ続けて締めます(-_-;)
2012-08-11 00:38:55そういえば、先ほど「二十世紀に急速に進歩した禅研究の成果を踏まえないで、禅について語ることはあり得ない」みたいなツイートをしましたが、宗門の方が自宗の禅について語られることについてはまた別の問題であるのは当然のことです。はい。
2012-08-11 02:36:47翌日
日本のテーラワーダも、これhttps://t.co/49li8lWLと、正確には合致せずとも、ほぼ大同小異の状況がある。Twitterみれば出てくる出てくる。
2012-08-11 08:48:11↓「これ」
あるいは、仏教者自身が口先で仏教を軽んじつつ、ちゃかした口調でそれを韜晦して見せたりとか。そういうのが一つの「境地」とされて、身内でそれをホメあっているような(一部の)状況に、私はほとほと飽き飽きしていた。
2012-08-10 22:08:33彼らは大乗へのルサンチマンがすごくて、そのメンタリティはよく理解できるので、それに対して取り繕うようなヘンな正当化は、日本仏教界もすべきでないと思うが、エスカレートしすぎて、最早私の目からは、仏教徒であるとすら思えないような状況が出てきている。
2012-08-11 08:52:08これは「あの界隈」の周辺で起こってる、局所的な話じゃないかにゃー(^_^;) 大乗がどうした、とか、テーラワーダがどうした、とか、そういう意識でやっている人は一般には少ないと思う。
2012-08-11 10:30:55私などもそうだが、家が寺でもなんでもなくて、専攻はもともと西洋哲学で、みたいな人間からすると、「業界」の一部の方がもたれている宗派的なこだわり自体に、全然リアリティがなかったりするんだよね。
2012-08-11 10:34:37