『碧巌録』に「馬大師野鴨子(やおうす)」って則があってな(第五十三則)、これは禅をちょっとでも勉強したことがある人なら、誰でも知ってるモノスゲ有名な話だ。
2012-08-10 19:04:14どういう話かというと、馬大師(馬祖道一)が百丈と一緒に歩いてる時、カモが飛び去ったので、百丈に「何を見た(見什麼)?」と尋ねた。百丈は「カモ(野鴨子)です」と素直に答える。そこで馬祖は、引き続き「どこにいった?」と尋ねた。
2012-08-10 19:07:24そこで百丈がまた素直に、「飛んで行きました(飛過去也)」と答えたところ、馬祖は百丈の鼻をねじりあげた。痛みのあまり悲鳴をあげる百丈に、馬祖が一言。「飛んで行ってなどおらぬじゃないか(何曾飛去)!」。
2012-08-10 19:11:17これ自体は、ある意味でベタベタな「作用即性、即心是仏」の禅境の表現です。こうした禅風を宣揚し、唐代禅、ひいては中国禅全体の基調を形成したのが馬祖道一であったというのは、現代の禅研究において常識とされるところ。「中国の禅は、実質的には馬祖から始まった」(入矢義高)というわけ。
2012-08-10 19:20:30こういう禅について詳しく知りたい人は、むかし私がニコ生でやった、『臨済録』の読解を視聴してみてくださいな。まだニコ動にあるはずです。自分で言うのもなんですが、あれはわかりやすいで。
2012-08-10 19:25:43ま、そうは言っても私の禅理解などというのは、先ほどの入矢先生や小川隆先生の御研究を、劣化コピーしたものに過ぎませんが。いま書いていることも、知識に関しては、殆どそうした先生方から教えていただいたもの。ですから、ちゃんと勉強したい方は、もちろんそうした先生方の本を読んでくださいな。
2012-08-10 19:29:58禅研究というのは二十世紀に圧倒的な進歩をしていて、まず敦煌文献を基礎に胡適や鈴木大拙、柳田聖山といった先生方の初期禅宗史に関する研究がなされ、ついで戦後に入矢先生が、語録の読み方を、ほとんど独力で「革命」した。
2012-08-10 19:33:13現代において中国禅、ひいては禅一般を語ろうとする場合、そうした研究成果を踏まえないのではお話にならないのだが、そうした認知はまだなかなか浸透していないようで残念。「大拙ならまだいいのだけど、大拙の孫引きの孫引きみたいな水準で禅を語っている本が多すぎる」と、某先生も嘆いておられた。
2012-08-10 19:43:35で、「野鴨子」の話だが、『祖堂集』(灯史〔禅宗の歴史書〕の一つで、非常に古いもの)では、この話を百丈ではなく、五洩霊黙(ごせつれいもく)の章に収めている。というのも、この話が「ある意味で」五洩の悟りの機縁になっているからなのだが、これがたいへん面白いのだ。
2012-08-10 19:55:14さて、『祖堂集』でも、馬祖が「何曾飛過」と言って弟子が悟るところまでは、先ほどの『碧巌録』と同じである。違うのは、五洩がその一部始終を見ていたこと。彼はそれを見て、「すっかりイヤになってしまった(師無好気)」。
2012-08-10 20:03:14「それがし、科挙の学業を捨て、大師のもとに身を投じて出家いたしました。にもかかわらず、今日まで、何ひとつ心を動かすものがございません(某甲抛却這箇業次、投大師出家。今日並無箇動情。)」(訳は小川隆教授による)。
2012-08-10 20:16:33大衆の前でそう言い切った上で、五洩は「百丈はこうして機縁を得て悟ることができたのだから、私にも慈悲をもって教えを垂れてください(乞大師慈悲指示)」と馬祖に迫るのだが、これはなんというか凄まじい話。五洩の抱えていた鬱憤のほどが忍ばれる。
2012-08-10 20:22:59馬祖禅では、例えば名前を呼ばれて「ハイ」と答えるとか、そういう何気ない日用のハタラキが、そのまま仏性そのものであると見る(作用即性)。馬祖の門下でいつもそういう接化を見ていた上に、いままた百丈が、何かを鼻をねじりあげられて「悟って」いる。そこで五洩は、とうとう爆発してしまった。
2012-08-10 21:37:50名前を呼ばれて答えてみたり、カモを見て鼻をねじあげたり、そんなものが仏教なのか。俺はそんなことのために、士大夫たる道を捨てて出家したのか。五洩は、すっかりイヤになってしまった(無好気)。
2012-08-10 21:40:59ただ、馬祖がやっぱり偉いのは、そこですぱりと、「うむ、出家の師はわしであったが、開悟の師は別人であろう(若是出家師則老僧、若是発明師則別人)」と言ったこと。
2012-08-10 21:45:25これは禅だけの話ではないし、素晴らしい仏教者の方も日本にはまだまだ多いのだが、同時に、先ほどの馬祖の劣化劣化劣化劣化劣化コピーみたいな中身の無いパフォーマンスをやって、それを仏教だと称している人たちも多いように、私はずっと感じていた。
2012-08-10 22:01:17あるいは、仏教者自身が口先で仏教を軽んじつつ、ちゃかした口調でそれを韜晦して見せたりとか。そういうのが一つの「境地」とされて、身内でそれをホメあっているような(一部の)状況に、私はほとほと飽き飽きしていた。
2012-08-10 22:08:33